学力の土台となるものは日本語の力です。それは、勉強として身につける以前に、家庭での日本語の生活から自然に身につくものです。家族との対話、読み聞かせ、そして読書や手紙という日本語の生活を通して、日本語を駆使する力が育ちます。
しかし、現代の社会では、家庭での日本語教育力に大きな差が出るようになってきました。原因のひとつは、テレビが家庭での日本語の環境に大きく影響してきたことです。テレビの登場によって、家族での話し合いや読書の時間が大きく削られるようになってきたのです。
解決策は、テレビというマイナス要因を排除することではありません。欠点を直すという発想は、わかりやすいものですが、やはり後ろ向きの考え方です。テレビが家庭生活に入ってきたのは、それなりの合理的な理由があったからですから、それを単に否定するという対応では限界があります。
大事なことは、テレビのマイナスを排除することではなく、テレビの影響を上回る日本語の環境を作っていくことです。
言葉の森の勉強は、こういう日本語の環境を作るきっかけとして役立てることができます。
第一は、毎日の暗唱です。素読の勉強というものが今見直されていますが、子供が毎日四書五経を読むという練習は家庭ではまず続けられません。最初は、珍しい勉強として取り組むかもしれませんが、じきに飽きてきます。最近学校でもよく行われるようになった音読の宿題も、家庭で続けようとなると子供が飽きてやりたがらなくなるという問題に必ず直面します。そういうときでも、親が確信を持って、子供に音読を続けさせればいいのですが、子供が飽きて嫌がるようになると、親は自分が音読をした経験がないのでつい子供に妥協してしまいます。
暗唱の場合は、毎日10分程度の時間をとるのは音読と同じように親からの働きかけが必要ですが、暗唱は音読と違ってやり遂げたあとに達成感が残ります。また、言葉の森の暗唱の自習は、担当の先生が毎週電話でチェックをします。暗唱の自習は、音読の自習と違ってやったかやらないかがはっきりわかるので、真面目に努力をした子供にとっては自分の努力が認められる機会になります。そして、何よりも、暗唱をすることによって、日本語を理解する頭の仕組みが作られていきます。
第二は、毎日の音読です。毎週の課題の長文を音読するのにかかる時間は3、4分です。この音読をすることで身につくものは、その長文の表現と内容ですが、実はそれ以外にもっと大きな効果があります。それは、親のいる前で音読することによって、親子で長文の話題を共有できるようになることです。子供が同じ長文を何度も音読するのを聞いていると、その長文の内容をもとに、親がいろいろな話をすることができます。この親からの話が、子供がその長文で感想文を書くときの似た話の中身になります。長文をきっかけにすることで、親子の間で知的な対話をする機会が生まれるのです。
第三は、毎日の読書です。特に、小学校高学年以上の生徒を対象にした問題集読書です。読書の大切さということは、多くの人が知っていますが、子供に本を読ませる方法に悩んでいる人もかなりいます。面白い本を目の前に置いておけば読むようになるかというと、そういうことはまずありません。また、たとえそれで読書をするようになったとしても、そこから学年相応の難しい本に移行できるかどうかということはまた別の問題です。問題集読書は、毎日の課題として難しい文章を読む機会を作ります。
問題集読書はどのようにするかというと、問題文だけを毎日数ページ読み、その中で印象に残った部分をもとに四行詩を書きます。問題を解くような勉強はだれがやっても同じ結果になりますが、自分で四行詩を書くという勉強は創造性が発揮できるので、実力のある子ほど喜んで取り組みます。この四行詩に書いた切れ味のいい表現が、自分で作文を書くときの表現としても使えるようになります。
第四は、毎週の作文です。今の子供たちは日常生活の中でまとまった文章を書く機会がほとんどありません。中学生になるとメールのやりとりなども盛んになりますが、そこで交わされる文章は断片的なもので、ひとまとまりの構成を持った文章を書くということではありません。しかも、学校のテストで文章力が評価される機会がないので、子供たちは、自分が文章を書けるのか書けないのか、得意なのか苦手なのかもわからないまま成長していきます。しかし、国語の本当の実力は、文章を書くことの中に表れてきます。ところが、毎週600字から1200字の作文を書く機会というのは、家庭の自主学習ではなかなか作れません。そこで、言葉の森で作文の勉強をする意義があるのです。
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日本語力を育てるのは家庭生活ですが、現在の問題は、家庭における日本語教育力が弱くなっていることです。
江戸時代、寺子屋で素読や手習い(習字)が普及していたのは、その寺子屋の教育に対応する文化が家庭にもあったためです。
例えば、子供が素読する文章を多くの親は知っていました。親自身も子供時代に同じような素読をして大きくなったからです。ちょうど、現代の九九のように、親が知っているから、学校で宿題として出されるだけでも、ほぼ全員が九九を言えるようになるというのと同じ家庭の文化があったのです。
また、家庭生活でも仕事生活でも、手紙によるやりとりが頻繁におこなわれていました。手習いの練習は、手紙を書くための教育として普及していました。
「インド式すごい勉強法」(ニヤンタ・デシュパンデ著)によると、インドの家庭では、親が子供に古典を朗読させるという昔ながらの教育文化があるそうです。学校や塾に行かなくても、家庭で朗読ができるというのは、親と子に共通する言葉の文化があるからです。
ひるがえって今、日本の家庭に日本語を教育する文化があるかと考えると、残念ながらそれはほとんどありません。
親が小さい子供に読み聞かせをするときでも、多く場合、本を用意して読んであげるという形です。このため、読み聞かせは親にとって負担の大きいものになります。しかし、もし親が自分が子供のころに聞かされたいろいろな昔話を知っていて、それを思い出しながら子供に話して聞かせるのであれば、この読み聞かせ(話し聞かせ)は、もっと楽に長い時間できるものになるでしょう。
教室に通っている子供たちに、感想文の似た話の例として昔話を挙げると、多くの子供がそういう昔話を知りません。また、日常生活でよく使われるようなことわざも、知らない子がかなりいます。昔話は、テレビの「日本むかしばなし」で、ことわざは、学習漫画の「まんがことわざ辞典」で学ぶようになっているのです。
また、現代の日本の社会では、手紙のやりとり自体がありません。そのため、日常的な言葉とかけ離れた形式やルールが生き残り、手紙を書くことが日常生活からますます縁遠いものになっています。家庭生活の中では文章を書く機会や必要がないため、子供たちが文章を書く場所は、学校の作文やレポートに限られています。しかし、その学校での機会も、それほど多いとは言えません。
更に、親子の対話の時間が限られています。親と子が家庭で談話をする時間がなかなかとれないのです。それは、父親の帰りが遅いこと、母親も遅くまで仕事をしていること、そして、テレビが茶の間に主役になっていることが主な理由です。その結果、親が子に話すのは、勉強に関する小言のようなものが中心になっているのです。
本当は、親が子供に、親の子供時代の話をしてあげるなどということが日常的にできれば、小学校低学年の子に対しても、中学生、高校生の子に対してもそれなりに中身のある対話ができるでしょう。しかし、そういう話が家庭で行われないのは、親子の間に家庭で話をするという文化がなくなっているからです。
家庭で知的で楽しい対話の機会がなく、テレビを見ることが日本語の生活の中心になっているので、たまに親子が話をすると、成績のこと、テストのこと、受験のことになり、内容を深める話よりも表面的な掛け声のような話になってしまうことが多いのです。(つづく)
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現代の日本の社会における子供たちの学力低下は、次のような流れで起こっていると考えられます。
まず、家庭教育の機能が低下していることです。そのため、子供たちの勉強力格差が拡大しました。その結果、学校教育の一斉授業が効果的に行われないようになり、学力の格差が更に拡大しました。そこで、低学年からの私立学校化志向が生まれました。そのため、勉強の内容が、学力をつけるための勉強から、受験に勝つための勉強に変わっていき、その傾向が低年齢化していきました。勉強が受験という目標に絞られた結果、学ぶ喜びを感じられない勉強をする子が増え、そういう子供たちがそのまま成長するという仕組みになっているのです。
高校生のころになると、だれでも、勉強の中で自分が向上するという喜びに目ざめるようになります。ところが、低学年から勝ち負けの勉強に適応していると、高校生になってもその延長で勉強というものを考えてしまいます。勉強は苦しいけど、やらないと競争に負けるからやむを得ずやるという考えです。
楽しいから勉強するという子と、苦しくても我慢して勉強するという子とどちらが伸びるかといえば、楽しみながら勉強できる子の方です。今の日本の社会は、楽しいから勉強するという子が減り、苦しいけど勉強するという子が増えているのです。
こう考えると、いちばんの土台となる家庭教育の足場をしっかりさせることが、学力を回復させる鍵になります。
学力テスト上位県の特徴は、学校で宿題を出すことが当然のようになっており、家庭学習がその宿題に対応して行われていることです。つまり、家庭で毎日何を勉強するかということがはっきりしているので、親が迷わずに子供に家庭学習をさせることができます。
これ対して、学力テスト下位の主に都会の県では、親が家庭学習とし子供に何をさせるのかというよりどころがありません。そこで、通信教育の教材や通学の塾などに頼るようになります。ところが、これらの教材や塾は、学力をつけることよりも、子供たちが取り組みやすいこと、点数という結果が出やすいことに力点が置かれがちです。
そのような勉強で子供たちに意欲を持たせようとすれば、競争や褒美に力を入れるということにならざるを得ません。こうして、勉強はますます学ぶ喜びから遠ざかったものになっているのです。
家庭教育は、市販の教材や塾に頼らずに、真に学力のつく教育として取り組むことが大事です。それが何かということをひとことで言えば、豊かな日本語の力を育てるということです。それは、学力の本質が日本語力だからです。
例えば、近代日本を切り開いた勝海舟、福沢諭吉、西郷隆盛、坂本竜馬などは、今の小中学校にあたる年齢のときに、今で言う英語や数学などの勉強はしていませんでした。勝海舟や福沢諭吉が外国語を勉強したのは成人してからです。この時代の日本人全体の学力の基盤は、日本語の読み書き以外にはありませんでした。その日本語の読み書きの力をしっかりつけることで、その後の新しい勉強の土台ができたのです。
では、豊かな日本語力はどのようにしてつくののでしょうか。
日本語の学習は、質、量、密度の三つの点から考えられます。日本語の質と量は、生活の中で自然に身につくものです。例えば、毎日の読書や対話を、少し難しく、しかし楽しく、したがって数多く経験していくことです。また、密度に関しては、同じものを繰り返すことです。対話においては同じ話題、読書においては同じ本を繰り返し味わうことが日本語力の土台になっていくのです。(つづく)
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