埼玉のとある市の中学校では、毎年3月に「卒業祝い献立」をおこなっていたが、今年はスケジュールの関係で3月11日になったそうな。そうしたら、『教職員から「震災のあった日にお祝いなんて非常識」という声が一部で上がっている。』というニュースになっていた。
埼玉新聞のニュースだったのだけど、こういう話を聞くたびに「追悼」という行為の二面性を感じる。個人の内面における思惟と、社会儀礼としての二面性だ。
別に大災害ではなくても、そのように感じることはあるのではないか。それは、宗教的な営みにもついて回ることだ。
祈る時は1人のこともあれば、複数のこともある。ただし、何万人が一斉に祈ろうが、人が何を祈るかは、その人にしかわからない。だから、祈りの間は、沈黙となる。そう考えると、祈りとは孤独な営みであって、本質的には個人的な行為のように思える。
しかし、人は弔いを社会の行為としておこなったきた。文化人類学の専門書を紐解くまでもなく、それを感じることはできるだろう。葬儀は、集団によっておこなわれる。それが極大化したのが、国葬を頂点とする権力者の葬儀だ。もちろん、民間でもある。ただし、長寿の人が増えて現役のまま没することは減ってきたこともあり、社葬というのもあまり聞かない。
「親族のみにて」というケースは増えており、いまの日本では、弔いという行為はまた内面へと向かっているのかもしれない。しかし、それでもセレモニーには一定の意味がある。先日、会社員時代の先輩が他界して、一か月強を経ておこなわれた「お別れの会」に行ってきた。1人で献花しただけだが、行ってよかった。 >> 震災の日に卒業祝い給食は非常識、という教師の方が不見識だと思う。の続きを読む