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伝統美のモダニズム “Cool Traditions”

わび・さび・幽玄:伝統的な日本の美意識はいかにして形成されたのか?

文化 歴史

「わび・さび・幽玄」は、日本文化のエッセンスだと考えられている。和歌、能、茶道、俳諧などを通じて、こうした伝統的な美意識が形成されてきたと私たちは思いがちだ。しかし、これらの言葉が日本の美意識を示す3点セットになっていくのは、東京五輪や大阪万博の時期になってからのことだ。日本美のクリシェ(常套句、じょうとうく)はどのようにして生まれたのか。

海外の日本文化研究者に「日本美の本質とは何か」と問われることがよくある。そんな時、日本の伝統文化を貫く美意識を伝える便利な言葉がある。「わび・さび・幽玄」である。もっと別の要素があることは十分に承知しているのだが、そう答えると自分でも妙に納得してしまう。まるで魔法のような言葉だ。それでいて、「わび」と「さび」はどう違うのか、「幽玄」とは何かと問われると、途端に困ってしまうのだ。

それにしても、「わび・さび・幽玄」こそが「日本的なるもの」と考えられるようになったのは、一体いつ頃からなのか。おそらく、この3点セットが日本文化の神髄だと何度となく聞かされ、いつの間にか、そう思うようになったに違いない。一種の「刷り込み」と言うべきであろう。

能楽、茶道、俳諧などに見られる「日本的なるもの」の変遷を踏まえ、「わび・さび・幽玄」が日本の美学の核心として語られるようになっていく過程を考察する。

中世に見いだされた美のキーワード

その変遷をたどる前に、「わび・さび・幽玄」とは一体何を意味するのかを簡単に解説しておく。

1. わび

茶道史研究家の熊倉功夫(1943年〜)氏の解説によると、「貧粗(ひんそう)・不足の中に心の充足を見いだそうとする意識」とある。「万葉集の時代、わびとは、恋が実らないで苦しむ状態を示すもので、決して美意識を表現する言葉ではなかった」

平安時代以降、つらく惨めな気持ちを表すとともに、もの寂しい情趣に近づき、中世になると枯淡、脱俗の心境を「わび」と呼ぶようになった。中世の人々は禅宗の影響もあって、満月よりも雲の間に見え隠れする月の姿を愛(め)でるようになり、完全ならざるものの美を発見した。わびもそうした中世的美の一つで、室町時代後期の町衆文化である茶の湯と結びついて人々の意識の中に定着していく。そして江戸時代になると、閑寂を尊ぶ茶の湯が「わび茶」と呼ばれるようになる。

2. さび

能・歌舞伎研究者の堀越善太郎(1937〜2004年)氏によると、「さびとは、閑寂の中に、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさを表現する言葉」ということになる。

寂しく静かなものが一層静まるとともに、古くなったものがさらに枯れ、あるいは凍(い)てついた景色の底に、かすかではあるが奥深いすがすがしさ、豊かで広がりのある世界が現れてくる。そうした表面的な華麗さとは相反する美が「さび」と呼ばれた。

「わび」と「さび」はいずれも「世間の俗事に煩わされないこと」「執着せずあっさりしていること」を表す美意識として、特に茶の湯を通じて重なり、通う合うことで相互に影響を与えるようになっていった。そこには中世に盛んになった仏教、特に禅宗の精神性が多大なる影響を与えている。

3. 幽玄

「わび」「さび」に対して、「幽玄」は漢語である。中国の仏教で「深遠でたやすく理解できない仏の教え」を示す語として用いられている。日本でも平安末期までこの意味を離れることはなかったが、室町時代には、上品で「優美」な情緒、「妖艶(ようえん)」「花」などの意味が加味された言葉として使われるようになっていった。世阿弥の能楽論である「花鏡(かきょう)」においても、幽玄を「美しく柔和なる体」と規定している。

「わび」と「さび」と「幽玄」は互いに重なり合う部分も多いが、それぞれが違う性質も持つ。とりわけ「わび・さび」と「幽玄」は相当に乖離(かいり)している。「わび・さび」を閑寂枯淡の境地によって得られる美意識とするならば、「幽玄」は背後に隠れた深い情趣を意味する点に違いが認められる。だが、それらが仏教、特に禅宗の説く「無」の境地と関係づけられ、互いに重なり合うもの、通底するものとされていった様子がうかがえる。

意外に新しい伝統的な美意識

中世以降、「わび・さび・幽玄」は日本の伝統位的な美意識を意味する言葉になっていくが、当時は3点セットではなかった。それではいつ頃にセットにする習慣がつくられたのか。さまざまな文献を当たってみると、意外や意外、20世紀も後半になってからだった。

現代人の多くは「わび・さび」は「茶道」の求道精神として、千利休の時代から連綿として受け継がれてきたように思っている。しかし、17世紀から現代に至る茶書をひもとくと、「わび・さびは一貫して茶道が目指した根本理念ではなかった」と日本文化研究者の岩井茂樹(1969年〜)氏は指摘する。

元禄期の茶書には「わび・さび」を語るものが多いが、江戸時代を通じてみると少数でしかない。明治時代は「簡素・質素・質朴」、大正時代は「和敬清寂」という言葉で茶道の根本理念が語られていた。茶の湯を国際的に知らしめた岡倉天心の「茶の本」(1906年)においてさえ、その核心は「渋み」にあると述べられている。

また、芭蕉の俳諧論の「さび」は江戸時代を通して主流の美意識だったわけではない。町人文化では「粋(すい)」や「いき」がもてはやされた。

能には「幽玄」の世界が展開されていると、よく言われる。しかし、能を論じた江戸時代の文献に、「幽玄」をうたいあげたものはない。そう言われるようになりだしたのは、20世紀以後である。能楽の聖典とされる世阿弥の「風姿花伝」は大名家に秘せられ続け、公刊されたのは1909(明治42)年。能の家元たちが「幽玄」を語りだしたのは、戦後になってからである。

「日本的なるもの」の正体

21世紀の今日、すでに文化多様性は常識だが、その国には連綿と続く伝統的文化があるといった考えは依然根強い。しかし、「日本的なるもの」が脈々と受け継がれてきたとする見方には危ういものを感じる。「わび・さび・幽玄」のそれぞれに関心が集まり始めるのは、早くても日露戦争前後のことである。日露戦争の「文化ナショナリズム」の高揚とともにそれぞれが意識されるようになり、第2次世界大戦下の「日本主義」の高まりの中で喧伝(けんでん)されていく。そして戦後、国際化が進む中で海外に広まり、日本美の神髄と認識されるに至ったのである、

「わび、さび、幽玄」が日本美をしめす3点セットになっていくのは、日本の国威発揚が盛んになった東京五輪や大阪万博の時期と重なる。海外諸国においても純粋な文化などあり得ない。その国独自の美意識というものがあるとすれば、それは他国と対抗したり、他国のものを取り入れたりする過程で形成されていくものである。3点セットは、海外諸国に日本文化の優位性をアピールするためのキャッチコピーみたいなものとして作られたようだ。その声が高まったのは、実は、海外の若者たちが「クールジャパン」を言い出す、ほんの少し前のことらしい。

今日、3点セットの他に日本美を表す言葉として、「あわれ」「いき」などが想起される。「あわれ」は『源氏物語』の根幹をなす、王朝的な美意識として広く認識されてきたし、「いき」は九鬼周造の名著『「いき」の構造』などによって、江戸町人文化のいなせな美学として市民権を得てきた。

さまざまな変遷を経て今日まで伝承されてきた「日本的なるもの」の美学を後世に伝えるためにも、時代ごとの流行や趣味の移り変わりに分け入って、こうした言葉と真摯(しんし)に向き合っていくべきであろう。その変化を追ってみるのもなかなか面白いと思う。

バナー写真=京都・龍安寺(りょうあんじ)の方丈石庭を鑑賞する外国人観光客。こうした枯山水(かれさんすい)庭園の神髄を語る時、「わび・さび・幽玄」は重要なキーワードだ。しかし作庭された当時、そのように考えられてはいなかった。1930年代以降、欧米で開催された万博に日本庭園が出品され、その模様が新聞や雑誌に大きく取り上げられ、日本人自身がその美意識を認識するようになった(AFLO)

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