実家の下敷きとなった母は息絶え、大火で全てが焼けた。石川県輪島市の朝市近くに住んでいた母の上平静津子(かみひら・せつこ)さん(75)を能登半島地震で亡くした刀祢(とね)千春さん(50)は同県珠洲(すず)市の避難所で発生から1カ月となる1日を迎えた。肉親との別れに加え、珠洲市内の自宅も倒壊した。「まだ(母が)亡くなった実感がない。どう生きていけばいいのか」。まだ心の整理はつかない。
「きれい好きで、近所でも美人と評判だった」という静津子さん。50年以上、輪島塗の箸作りに携わっていた。専用機材で木を削り、箸の形を整える仕事姿が印象的だった。「父が釣った魚を煮つけやフライにする」など料理も得意だった。
正月2日には、家族そろって静津子さんのいる実家に帰省する予定だった。2人の孫も「おばあちゃん」の手料理を楽しみにしていた。
元日夕、千春さんは海に近い珠洲市宝立(ほうりゅう)町の自宅にいた。最初の揺れは避難するほどではなかったが、「大丈夫やった? 大きな揺れやったね」と静津子さんから電話があった。地震があると必ず電話をくれた。
「大丈夫。輪島はどう」。千春さんが応じると、今度は強烈な揺れが襲った。メリメリと大きな音を立てながら自宅が倒壊し、2階部分が1階に落ちてきた。千春さんは叫びながら机の下に隠れた。母との通話は42秒で切れていた。これが最期の会話になった。
《お母さん、亡くなった》
「津波から逃げるのに精いっぱいで、母のことを気にしていられなかった」。家族と避難していた夜、千春さんのもとに妹からLINE(ライン)のメッセージが届いた。《お母さん、うちの下敷きとなり亡くなったって》。スマートフォンの画面を見たまま、何も考えられなくなった。
静津子さんは実家で生き埋めになり、すぐ父の手で助け出されたが、足を挟まれ頭も打っていた。急いで車で病院に向かった。車内で「痛い、痛い」と言っていたが、途中で力尽きた。死因は圧死だった。
割れて泥がついたマグカップ
実家は朝市一帯の大火に巻き込まれて焼失。千春さんは自宅の片付けに追われ、母親と再会したのは半月後の15日、輪島市内の中学に設けられた遺体安置所だった。
ドライアイスが敷き詰められた棺に横たわる静津子さん。「きれいに化粧してもらい、頭の傷も分からなかった。(亡くなって)時間がたっていたけど、元気なころと同じくらい、ふっくらしてきれいな顔」だった。
実家の焼け跡で静津子さん愛用のマグカップを見つけ、形見に持ち帰った。マグカップは割れて泥もついていたが、「地震の悲惨さを伝えるもの」だとして、そのままにしている。
避難所暮らしが続く千春さん。これからどこに住めばいいのか、今春中学へ進学予定だった次男(12)の通い先は―。「とにかく何も考えられない」まま、時間だけが過ぎてゆく。(鈴木源也)