JAおやま桑集荷所で行われた繭の出荷作業(JAおやま提供)

絹義務教育学校では、地域の伝統文化を学ぶ取り組みとして養蚕を体験する授業が毎年、行われている

養蚕など地域の伝統文化を学ぶ授業が絹義務教育学校で行われている

JAおやま桑集荷所で行われた繭の出荷作業(JAおやま提供) 絹義務教育学校では、地域の伝統文化を学ぶ取り組みとして養蚕を体験する授業が毎年、行われている 養蚕など地域の伝統文化を学ぶ授業が絹義務教育学校で行われている

 明治時代に盛んとなり、小山市の一大産業となった養蚕業。市内には「桑」や「絹」と呼ばれる地区があり、古くから地域に浸透していたことがうかがえる。

 各農家で大事に育てられた蚕は繭糸を生み出し、本県と茨城県をまたぐ鬼怒川流域の絹織物「結城紬(つむぎ)」をはじめとする着物の原料となった。

 蚕の餌となる桑苗の栽培も盛んだった。全国有数の産地として、群馬県や福島県など各地に出荷していた。特に水はけのいい畑が広がる三拝川岸地区は、15万本ほども育てていた。

 JAおやま養蚕部会長五十畑茂(いかはたしげる)さん(75)が所属した「市桑養蚕組合」は1975年、農家の経営状況や後継者育成などを評価する農林水産祭で天皇杯を受賞した。当時、組合には318戸が加入。繭の生産量は約327トンと、ピークを迎えていた。

 その後、化学繊維の普及や着物の需要低下で、1キロ約2千円した蚕糸は1500円を切り始めた。五十畑さんは「周りが徐々に野菜の栽培などに切り替えていくという雰囲気があり、養蚕の専業農家は減っていった」と振り返る。

 現在、JAおやま養蚕部会は6戸。生産量は75年に比べ約100分の1にまで減った。専業で続けることは経済的に難しく、産業の復興は「おそらく厳しい」という。

 それでも地域の伝統文化を学ぼうと、絹地区の絹義務教育学校では、児童が蚕に桑の葉を与え、繭になるまで育てる取り組みが毎年、続けられている。

 「地域で盛んだった産業を、伝統として残してほしい」。五十畑さんは切に願う。