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藤原秀衡の息子たちの屋敷跡を巡る岩手・平泉の旅

藤原秀衡の息子たちの屋敷跡を巡る岩手・平泉の旅

更新日:2018/12/03 16:46

奥州藤原氏の三代目当主にして、平泉の全盛期を築き上げた藤原秀衡には、6人の男子がいたとされています。
長男が国衡、次男が泰衡、三男が忠衡、四男が高衡(隆衡)、五男が通衡、六男が頼衡です。
このうち、国衡、泰衡、忠衡、高衡の4人については、平泉に屋敷があり、その場所も概ね特定できています。
秀衡の子どもたちの人となりに思いを馳せながら、残されている屋敷跡について見て回る旅にご案内しましょう。

長男国衡の屋敷は平泉の西南の守り

長男国衡の屋敷は平泉の西南の守り
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秀衡の長男国衡(くにひら)は「西木戸太郎」と呼ばれました。
母親は傘下の豪族の一族の出身であったと見られ、次男泰衡を産んだ正妻と身分差があったために、長男でありながら秀衡の跡を継ぐことはできませんでした。
当時の文献に「武者っぷりがゆゆしくて、戦の日も抜きん出て天晴れ者と見えた」とあることから、6人の中でも武芸に秀でた存在だったようです。

国衡は、義経亡き後の平泉軍の大将軍として鎌倉軍と3日間に亘って激戦を繰り広げましたが、結局敗れ、逃れる途中、馬が深田にはまって動けなくなったところを討ち取られてしまいました。
その国衡の屋敷についてですが、「西木戸」が恐らく当時の平泉の西の入り口にあって、その近くに屋敷があったのでこう呼ばれたのでしょう。
「西木戸」の遺構はまだ発見されていませんが、国衡の屋敷跡と思われる遺跡は発見されています。
場所は現在の平泉小学校です。

平泉小学校は毛越寺の向かいにあり、南から平泉を目指してくると、確かに当時の平泉の市街地の南西端に当たる場所です。
平泉小学校は平泉の街中から見ると普通に平坦な場所に見えるのですが、逆に平泉の外の南側から見ると、急峻な高台となっているのが分かります。
南から攻められた場合、守るのにも適した場所だったと言えます。
国衡は、平泉の南の守りを受け持っていたのでしょう。

<平泉小学校の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉倉町155
電話番号:0191-46-2202
アクセス:JR平泉駅から徒歩10分

次男泰衡の屋敷は平泉の政治の中心

次男泰衡の屋敷は平泉の政治の中心
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次男の泰衡(やすひら)は、秀衡の跡を継いで奥州藤原氏の四代目となりました。
母親は京の都から下ってきた貴族、藤原基成の娘で、その血筋から秀衡の跡を継ぐことになりました。
父秀衡の死後、泰衡は日増しに強まる頼朝の圧力から何とか平泉を守ろうとして、朝敵となるのを避けるために、苦渋の決断だったのでしょうが、義経を討ちます。
しかし、義経のいなくなった平泉は攻めるに易しと、頼朝の奥羽侵攻(文治五年奥州合戦)を招いてしまい、泰衡は北方に逃れる途中に、家臣の裏切りに遭って命を落としてしまいました。

父秀衡の遺言に背いて義経を討ち、挙句に平泉百年の終焉を招いてしまったということで、泰衡の評判は一般にあまり芳しいものではありませんが、朝廷の許しがないまま軍を動員した頼朝の行動の方が当時から見ると異例のことであり、泰衡の判断ミスを責めるのは酷とも言えます。

その泰衡の首級は中尊寺金色堂の須弥壇に、父秀衡の遺体とともに納められていますが、屋敷は、秀衡の跡を継いだことから父と同じ、「伽羅御所(きゃらのごしょ)」となります。
現在は住宅地の一角にそれを伝える案内板があるだけですが、隣の奥州市の「えさし藤原の郷」で復元した伽羅御所を見ることができます。

次男泰衡の屋敷は平泉の政治の中心
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秀衡、泰衡にはもう一つ屋敷があります。
後世に「柳之御所」と呼ばれた平泉館(ひらいずみのたち)です。
長らく、北上川に削られて失われたとされてきましたが、国道4号線バイパス工事に伴って大規模な遺構が出土しました。
現在、「柳之御所遺跡」として整備されており、史跡公園となっています。
出土品は隣接する「柳之御所資料館」に展示してあります。

次男泰衡の屋敷は平泉の政治の中心
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日々の寝起きは伽羅御所で、柳之御所(平泉館)は公務を行う屋敷であったようです。
総理大臣の邸宅にたとえれば、伽羅御所が「首相公邸」で、柳之御所は「首相官邸」であると言えます。

<伽羅御所跡の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉伽羅楽9-2
アクセス:JR平泉駅から徒歩6分

<えさし藤原の郷の基本情報>
住所:岩手県奥州市江刺区岩谷堂小名丸86-1
電話番号:0197-35-7791
アクセス:江刺バスセンターからバス5分

<柳之御所資料館の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉伽羅楽108-1
電話番号:0191-34-1001
アクセス:JR平泉駅から徒歩11分

三男忠衡の屋敷は平泉の北の守り

三男忠衡の屋敷は平泉の北の守り
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三男の忠衡は、「泉三郎」と呼ばれていました。
忠衡は、父秀衡の遺言を守って最後まで義経を奉じて頼朝に対抗すべきと主張しました。
しかし、そのために兄泰衡と対立し、義経が討たれた2か月後、忠衡もまた討たれてしまいました。

忠衡の屋敷は松尾芭蕉の「奥の細道」にも登場する泉ヶ城で(異説もあります)、中尊寺の北、衣川を挟んだ対岸にあります。
この辺りには平泉の北の玄関口である衣川関があります。
泉ヶ城は四方を衣川に囲まれた天然の要害で、やはり攻めるのに困難な地形です。
忠衡は平泉の北の守りを受け持っていたものと思われます。

三男忠衡の屋敷は平泉の北の守り
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現在、泉ヶ城のある土地は個人の所有で、その方が建てた「泉三郎忠衡供養塔」や「泉ヶ城跡」の碑があります。

三男忠衡の屋敷は平泉の北の守り
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泉ヶ城の近くには、渕端諏訪大明神社(ふちはたすわだいみょうじんしゃ)、またの名を旗鉾神社(はたほこじんじゃ)と呼ばれる神社があります。
元は、かつてこの地を本拠とした安倍氏の棟梁、安倍頼時が兵器を祀って鎮護の神として崇めたという伝承が残っていますが、その後、この地に住んだ忠衡が再興し、自身の守り本尊である魚籃観音を祀ったと言われています。

<泉ヶ城の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉泉ケ城
アクセス:JR平泉駅から4.5km(徒歩1時間8分)

<渕端諏訪大明神社(旗鉾神社)>
住所:岩手県奥州市衣川区清水の上
アクセス:JR平泉駅から4km(徒歩1時間)

四男高衡の屋敷は国衡の屋敷の南隣に

四男高衡の屋敷は国衡の屋敷の南隣に
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四男の高衡(たかひら、隆衡とも)は、「本吉冠者」「本吉四郎」と呼ばれていました。
義経の首級を鎌倉に運んだ際の使者もこの高衡だと言われていますし、駿馬の献上などで名前が登場するので、平泉の対外的な活動を担っていた様子が伺えます。
頼朝が平泉に攻め込んできた文治五年奥州合戦の折には頼朝軍に対して数か所に亘って奮戦し、平泉陥落後一旦は逃れますが、投降し、命を助けられます。
後世の資料には、「頼朝がその武勇を惜しんで死罪を免じて相模国に配流させた」とあります。

その高衡の屋敷は、長男国衡の屋敷の南にあったと言われています。
国衡の屋敷があった平泉小学校の南には現在、平泉町立幼稚園・平泉保育園「二葉きらり園」があります。
この辺りが高衡の屋敷があった場所だと思われます。

なお、五男の通衡(みちひら)と六男の頼衡(よりひら)の屋敷は確認できていません。
まだ独り立ちする前の年齢で、父秀衡の元にいた可能性が高いです。
その通衡も頼衡も、兄泰衡に討たれたとの伝承が残っています。
忠衡の場合と同様に、義経を巡る意見の違いが原因だったのかもしれません。
兄弟が対立し、その結果3人が討たれてしまうという内紛状態、一枚岩となれなかった平泉は、頼朝と戦う前に既に負けてしまっていたと言えるかもしれません。

<二葉きらり園の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉字倉町152
電話番号:0191-46-2575
アクセス:JR平泉駅から徒歩10分

柳之御所遺跡に立ってみると

史跡公園として整備された柳之御所遺跡に立って、随所にある案内板の説明を参考にしながら広い敷地を見回してみると、華やかだった当時の様子が見えてくるようです。
「三代の栄耀一睡のうちにして」と書いた松尾芭蕉の心境にも思いが至るかもしれません。
4人の屋敷跡の中では忠衡の泉ヶ城が、平泉駅から4kmとやや離れた場所にあるので、平泉駅前でレンタサイクルを借りるのがおススメです。

今回紹介した場所はいずれも世界遺産でこそありませんが、こうして秀衡の子どもたちの屋敷跡を巡ってみると、彼らの存在がよりリアルに感じられることと思います。
中尊寺や毛越寺など世界遺産は一通り見たという人にぜひおススメしたいと思います。

2018年11月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2018/04/10 訪問

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