1兆円の“国家プロジェクト”はなぜ失敗したのか?MRJ関係者の証言:ガイアの夜明け
7月19日(金)に放送された「ガイアの夜明け」(毎週金曜夜10時)のテーマは、「夢を再び!日の丸ジェット」。
世界で航空機宇宙分野の競争が激化する中、日本も新たな時代の基幹産業として育成・強化が急がれている。15年間という長い年月をかけ、1兆円を費やした国産ジェット旅客機の開発は、なぜ頓挫してしまったのか。その挫折を失敗に終わらせず、次なる挑戦への糧とすることはできるのか。6人のキーパーソンの証言から紐解き、日本の航空宇宙産業の未来を探る。
【動画】1兆円の“国家プロジェクト”はなぜ失敗したのか?MRJ関係者の証言 新戦略で‟再挑戦”!経済産業省の思惑
MRJ(三菱・リージョナル・ジェット)を手がけた「三菱重工」(東京・千代田区)。創業は1884年、その歴史は造船から始まり、現在は日本はおろか世界の交通インフラから防衛分野まで幅広く手がけ、ボーイング787の主翼部分の製造も行っている。
三菱重工がかつて作った零戦は、運動性能と航続距離の長さで、その名を世界にとどろかせたが、戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本の航空機開発・製造は禁止に。20年の時を経て、三菱重工が中心となり、国産プロペラ旅客機YS11の開発に成功。182機が作られ、2006年まで現役で活躍した。
その三菱重工が半世紀の時を経て挑んだのが、国産ジェット旅客機、MRJだったが、そこには大きな落とし穴が待ち受けていた。
MRJは、近距離移動のニーズをかなえる航空機で、座席数は90。三菱重工の傘下でMRJの開発を担った「三菱航空機」元社長の川井昭陽さんは、「『今後50年は飛ぶぞ』という意気込みで造った飛行機。そういう意味では残念」と話す。
10年前、長い歴史を持つ「ファンボロー航空ショー」(イギリス)で、川井さんはMRJの完成を前に、世界中の航空会社へ売り込みをかけていた。この日もアメリカの航空会社が購入を決め、受注した数は300機以上に。
川井さんは小型ジェットMU300の開発に携わり、機体の安全性を証明する“型式証明”を取得。その経験からMRJを託された。型式証明とは機体の安全性を証明するもので、機体強度や騒音、排出ガスなど、項目は400以上にも上り、運航する国ごとに必要となる。
川井さんはMRJについても、アメリカでの型式証明の取得を目指していた。
当初MRJは2013年には納入する予定だったが、型式証明の取得が大幅に遅延。アメリカのボーイング社から経験のあるOBを数多く日本へ招聘し、アドバイスを求めたものの、当時の三菱重工の技術者は、型式証明に対する知識や経験が薄く、結果的に何度も機体の設計変更を余儀なくされた。
民間旅客機が初飛行から型式証明を取得するまでには、ボーイング787が1年9カ月、エアバスもほぼ同じくらいの年月がかかっていたが、MRJは初飛行から7年以上かかっても証明が取れなかった。川井さんは、「民間航空機を持つということは国家として重要なパーツのひとつ。(MRJの失敗は)私は人の問題だと思う。人がいなかった。今からやるなら人をつくるべきだ」と話す。
2015年11月。川井さんが社長を退任した8カ月後、MRJ初飛行の日がやって来た。チーフテストパイロットを務めた安村佳之さんは、航空自衛隊で戦闘機などの飛行試験を担当した後、三菱重工に入社。MRJの試験飛行を800時間以上担当し、性能を最もよく知る人物だ。
安村さんは三菱を退職後、「AeroVXR合同会社」を立ち上げ、無人飛行機やドローンなどの機体メーカーが認証を取得する際に必要となるテストパイロットを育てている。
「テストパイロットは、航空機開発の最初の段階から携わり、どういった飛行機を造るとパイロットにとって使いやすいか、ヒューマンエラーの可能性が少ないかなど、設計者と議論する。パイロットの意見を反映しながら、設計を固めていく」。
安村さんがこのスクールを立ち上げたきっかけは、MRJの想定外の事態だった。
「MRJの開発時に試験機を4機準備して連続で飛ばそうとしたら、パイロットが20人必要、フライトテストエンジニアも40人必要だということが分かった。その人数を日本国内で集めようとすると、対象となる人がいない。開発が分かっているパイロットやエンジニアを育てることが大事」と話す。
次世代に向け、育成を始めた安村さんを支えているのが長男の拓也さんだ。拓也さんはパイロットになり、次男の亮さんも同じ道へ。兄弟で父の背中を追いかけている。
世界で航空機宇宙分野の競争が激化する中、日本も新たな時代の基幹産業として育成・強化が急がれている。15年間という長い年月をかけ、1兆円を費やした国産ジェット旅客機の開発は、なぜ頓挫してしまったのか。その挫折を失敗に終わらせず、次なる挑戦への糧とすることはできるのか。6人のキーパーソンの証言から紐解き、日本の航空宇宙産業の未来を探る。
【動画】1兆円の“国家プロジェクト”はなぜ失敗したのか?MRJ関係者の証言 新戦略で‟再挑戦”!経済産業省の思惑
MRJはなぜ失敗したのか? 関係者の証言
MRJ(三菱・リージョナル・ジェット)を手がけた「三菱重工」(東京・千代田区)。創業は1884年、その歴史は造船から始まり、現在は日本はおろか世界の交通インフラから防衛分野まで幅広く手がけ、ボーイング787の主翼部分の製造も行っている。
三菱重工がかつて作った零戦は、運動性能と航続距離の長さで、その名を世界にとどろかせたが、戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により日本の航空機開発・製造は禁止に。20年の時を経て、三菱重工が中心となり、国産プロペラ旅客機YS11の開発に成功。182機が作られ、2006年まで現役で活躍した。
その三菱重工が半世紀の時を経て挑んだのが、国産ジェット旅客機、MRJだったが、そこには大きな落とし穴が待ち受けていた。
MRJは、近距離移動のニーズをかなえる航空機で、座席数は90。三菱重工の傘下でMRJの開発を担った「三菱航空機」元社長の川井昭陽さんは、「『今後50年は飛ぶぞ』という意気込みで造った飛行機。そういう意味では残念」と話す。
10年前、長い歴史を持つ「ファンボロー航空ショー」(イギリス)で、川井さんはMRJの完成を前に、世界中の航空会社へ売り込みをかけていた。この日もアメリカの航空会社が購入を決め、受注した数は300機以上に。
川井さんは小型ジェットMU300の開発に携わり、機体の安全性を証明する“型式証明”を取得。その経験からMRJを託された。型式証明とは機体の安全性を証明するもので、機体強度や騒音、排出ガスなど、項目は400以上にも上り、運航する国ごとに必要となる。
川井さんはMRJについても、アメリカでの型式証明の取得を目指していた。
当初MRJは2013年には納入する予定だったが、型式証明の取得が大幅に遅延。アメリカのボーイング社から経験のあるOBを数多く日本へ招聘し、アドバイスを求めたものの、当時の三菱重工の技術者は、型式証明に対する知識や経験が薄く、結果的に何度も機体の設計変更を余儀なくされた。
民間旅客機が初飛行から型式証明を取得するまでには、ボーイング787が1年9カ月、エアバスもほぼ同じくらいの年月がかかっていたが、MRJは初飛行から7年以上かかっても証明が取れなかった。川井さんは、「民間航空機を持つということは国家として重要なパーツのひとつ。(MRJの失敗は)私は人の問題だと思う。人がいなかった。今からやるなら人をつくるべきだ」と話す。
2015年11月。川井さんが社長を退任した8カ月後、MRJ初飛行の日がやって来た。チーフテストパイロットを務めた安村佳之さんは、航空自衛隊で戦闘機などの飛行試験を担当した後、三菱重工に入社。MRJの試験飛行を800時間以上担当し、性能を最もよく知る人物だ。
安村さんは三菱を退職後、「AeroVXR合同会社」を立ち上げ、無人飛行機やドローンなどの機体メーカーが認証を取得する際に必要となるテストパイロットを育てている。
「テストパイロットは、航空機開発の最初の段階から携わり、どういった飛行機を造るとパイロットにとって使いやすいか、ヒューマンエラーの可能性が少ないかなど、設計者と議論する。パイロットの意見を反映しながら、設計を固めていく」。
安村さんがこのスクールを立ち上げたきっかけは、MRJの想定外の事態だった。
「MRJの開発時に試験機を4機準備して連続で飛ばそうとしたら、パイロットが20人必要、フライトテストエンジニアも40人必要だということが分かった。その人数を日本国内で集めようとすると、対象となる人がいない。開発が分かっているパイロットやエンジニアを育てることが大事」と話す。
次世代に向け、育成を始めた安村さんを支えているのが長男の拓也さんだ。拓也さんはパイロットになり、次男の亮さんも同じ道へ。兄弟で父の背中を追いかけている。
MRJを支えた下請けメーカーの苦悩と現実
一方、MRJに社運を賭けた会社も。1961年創業の「大起産業」(三重・桑名市)は、航空機の機体組み立てを請け負う会社で、その技術は世界からも高い評価を受けている。
三菱重工の下請けとして、胴体の一部や翼の付け根の部分の組み立てを担っていた大起産業は、MRJプロジェクトのため新たに60人を採用したが、まさかの開発中止で全員離職。
航空機事業部長の寺澤伸吾さんは、「みなさん魂を抜かれたみたいになってしまって…。飛行機が好きで会社に入ってきた人たちに応えられなかったということに、いまだに心が痛んでいる」と話し、内藤茂範社長も「MRJの時はやり切っていない。まだまだできるはず、やれることがあった。やっぱり不完全燃焼」と振り返る。
新戦略で‟再挑戦”!経済産業省の思惑
今年4月、政府はMRJの開発中止について分析し、4つの複合的要因があると公表した。1つ目と2つ目は、三菱航空機元社長の川井さんが指摘していた経験不足。3つ目に挙げたのは市場環境で、アメリカ市場の規制緩和を見越していたが、90席サイズに対する緩和が進まず、完成したとしてもビジネスとして不透明だったという。そして4つ目は、政府自ら自分たちを戒めた。経済産業省は民間企業一社に航空機開発を担わすのではなく、政府がもっと支援するべきだったと反省している。
MRJの開発中止から1年…政府は航空産業の新たな戦略を打ち出した。今までの飛行機とは違う、水素などを燃料とするジェット機に5兆円の巨額を投資する国家プロジェクトを発表したのだ。
経済産業省 航空機武器産業課 課長・呉村益生さんは、「MRJはものづくりに負けたわけではない。最終的に国際的なビジネスとして完遂できなかったことが大きな原因。2035年に向けて完遂機事業をつくっていく。大きなグランドデザインとして描いている」話す。
6月。兵庫・神戸市で開催された国際展示会「エンジンフォーラム神戸」には、ホンダや川崎重工など250社が出展。呉村さんは集まった航空機産業の関係者に向けて、「航空機産業は大きなゲームチェンジを迎えて、100年に一度の大きな変革期に来ている。日本としては、産業界の力を結集しながら新しい機体開発に貢献して、もう一段、二段、産業競争力を上げていきたい」と訴えた。
呉村さんはなるべく多くのブースを見て回り、日本の航空産業の持つ強みを改めて感じていた。
一方、次世代の国産旅客機開発に向け、いち早く動き出していたのが中田博精さんだ。
中田さんは国交省を経て、2019年に三菱航空機に入社。MRJの開発を担当して型式証明取得に翻弄された人物だが、その失敗を糧にし、未来のために“ある準備”を進めていた――。
中田さんが、日の丸ジェット計画に抱く夢とは?
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