2023年4月2日日曜日の夜9時過ぎ、私は新宿某所で夕食を摂っていた。
ふとスマートフォンに目をやると、契約しているニュース・アプリから通知が届いていた。そこには「坂本龍一の死」が報じられていた。私はスマホから一瞬目を逸らし、小さく深呼吸をしてからもう一度、その画面を凝視した。
見間違いではなかった。坂本龍一が、坂本さんが、逝ってしまった。記事には数日前の3月28日に亡くなったとあった。享年71。がんとの闘病が伝えられていたとはいえ、早過ぎる死というほかない。私は突然の訃報に接した動揺と、ずいぶん前から覚悟していた時がいよいよ訪れたのだという、どこか穏やかでさえある気持ちの両方を感じていた。不思議なほど哀しみは込み上げて来なかった。少なくともその時点では。ただ、坂本さんのややくぐもったあの印象的な声や、少し舌足らずな話し方や、謎かけをしているみたいな悪戯っぽい表情や、いつもいつでも驚くほどに自然体だった佇まいが、俄かに脳裏に蘇ってきた。しかしそれら記憶の中の「坂本龍一」の映像/音像は、もうかなり以前のものだった。
1 今なお無数に存在する、魅惑的な秘密
私は1990年代前半から2000年代の終わりまで、主としてその時々のニューアルバムにかんする取材で、時には半ばプライベートで、たびたび坂本さんと会って話す機会があった。そのほとんどはレコード会社のセッティングによるインタビューだったが、それ以外にも坂本さんMCのラジオのスペシャル番組のゲストに呼んでいただいたり、自分で編集発行していた雑誌の企画でニューヨークの自宅兼スタジオにお邪魔して、食事をしながらゆっくりお話を伺ったこともあった。また、私が主宰している音楽レーベルHEADZからデビューした□□□(クチロロ)というポップ・ユニットが、坂本さんがエイベックス内に設立したレーベル「commmons」に2006年に移籍したので、音楽ライターとしての仕事とは別の接点もあった。
だが2010年代以降は、私が音楽ジャーナリズムから次第に距離を置くようになったこと、またちょうどその頃から坂本さんのリリース・ペースがスローダウンしていったこともあって、自然とお目にかかる機会がなくなってしまった。おそらく面と向かって話したのは、アルバム『out of noise』(2009年)のリリース・タイミングのインタビューが最後だったのではないか。その後は時折メールのやりとりはあったものの、結局亡くなるまでに一度も会わず(会えず)じまいだった。したがって私は坂本龍一の晩年を直接的にはほぼまったく知らない。もちろん作品や活動はチェックしていたが、坂本さんと直に会って話すことができたのは、もうひと昔以上も前のことなのだ。
しかしそれでも、私はこれから「坂本龍一」を、いくらかの時間をかけて、自分なりに論じてみたいと思う。私にそんな資格があるのかどうかはわからない。けれどもしかし、私はいま、ひょっとしたら他の誰とも違う、自分だけが描き出せる「坂本龍一の肖像」があり得るのではないかという仄かな予感、いや、ほとんど確信めいたものを感じているのである。もちろん、それは単なる勘違いや、やみくもな思い込みに過ぎないのかもしれないし、実際にやってみなければ、書き出してみなければ、何がどうなるのかはわからない。
だが私は、ここにこうして、私の「坂本龍一論」を始めようと思う。それは何よりもまず私自身が、坂本龍一とは「誰」だったのか、いや、坂本龍一とは「何」であったのかを、あらためて考えてみたいと思っているからだ。「坂本龍一」という不世出の音楽家の、膨大で多種多様な作品群と、強固な一貫性と数々の矛盾や逆説を併せ持つその人生には、魅惑的な秘密が、解かれるべき謎が、開かれていない扉が、今なお無数に存在していると思うからだ。そしてまた、20世紀が半周を回って間もなく生まれ、21世紀が最初の四分の一に達するよりも前に途絶した彼の71年の生が、折々の時代の気風や、その時々の――「音楽」や「芸術」や「文化」などと呼ばれている領域には留まらない、だがそれらと複雑な饗応を交わしている――さまざまな情況と、いかなる関係を切り結んでいたのかを、自分なりに確認してみたいと思うからだ。
むろん私にやれることは限られている。私が「坂本龍一の人生」に見出すことができるもの、私が「坂本龍一の音楽」から聴き取ることができるものが、まったくもってありきたりで凡庸な、私以外にとっては取るに足らない瑣事でしかないという可能性は、じゅうぶん過ぎるほどにある。しかしそれでも、やってみたいと思うのだ。蛮勇(あるいは無意味な徒労?)に終わっても構わないというドン・キホーテ的な覚悟がなければ始められない冒険への道程が、ひとりの人間の眼前にふと立ち現れることがある。そして「坂本龍一」とは、一片の疑いもなく、めくるめく「冒険」そのものではないだろうか?
2 私の「耳」を通した坂本論を
じつを言えば、私は坂本さんが逝ってしまうよりも前から「坂本龍一論」を書いてみたいと思っていた。
2023年1月17日、坂本さんの71回目の、そして最後になった誕生日に、今のところは坂本龍一のラスト・アルバムである『12』がリリースされた。その6日前の1月11日には、イエロー・マジック・オーケストラ=YMOの盟友、高橋幸宏が、脳腫瘍から併発した誤嚥性肺炎によって亡くなっていた(それはある意味で坂本さん以上に思いがけない最期だった)。私はリリース日に届いた『12』を繰り返し聴きながら、以前からアイデアとしては持っていた「坂本龍一論」を、そろそろ実現させなくてはならないと考えた。物書きになって35年(私の商業誌デビューは1988年である)、これまで複数のジャンルを経めぐりながら何冊も本を出してきたが、私はモノグラフィと呼べる書物はほとんど書いてこなかった。書名に固有名詞を冠した本は、ジャン=リュック・ゴダールを論じた『ゴダール原論』(2016年)と『筒井康隆入門』(2017年)だけで、音楽では『「4分33秒」論』(2014年)があるが、これはジョン・ケージのあまりにも有名な無音ならぬ無演奏の曲「4分33秒」のみを一冊丸ごと論じた本なので、まともな「ジョン・ケージ論」とは到底言えない(「4分33秒」と坂本龍一の関係については追って詳しく述べることになるだろう)。
だがしかし、自分もそれなりの年齢になってきて、あとどれだけ仕事ができるのか、なんとはなしに考えることがあり、つまり自分の人生の終幕がぼんやりとではあれ見えてきて、これからひとりの表現者について一冊の本を書くとしたら、それはいったい誰だろうかと徒然に考えてみた時に、音楽家で真っ先に思い浮かんだのが、他ならぬ坂本龍一だった。もちろん相手にするには巨大過ぎると思ったし、自分ごときの手に負える存在ではないということもよくよくわかっていたが、それでもやはり、やるのなら坂本さんしかいない、と思った。だがそう思いはしても、実際にそれをやるのかどうか、やることになるとしてもいつや(れ)るのかについては、漠然とした感覚しか抱いていなかった。要するに、いつかやれたらいいな、とか、やれる時が来たらやるかもしれないな、という程度でしかなかった。
だが『12』を聴きながら、前作『async』(2017年)から約6年ぶりとなる、自らの生命を賭けた闘病生活の只中で制作したニュー・アルバムのリリース日を、自分の生まれた日に設定するということが、坂本さんにとって間違いなく一種の「祈り」でもあったのだろうと思うと、いてもたってもいられなくなった。そこで私は「坂本論」について、前よりもはるかに真面目に、具体的に考え始めた。
まず私は、微に入り細を穿った包括的で総合的な「評伝」は、自分のや(れ)ることではないと思った。坂本龍一(やYMO)にかんする広義のバイオグラフィ、本人による発言集や対談本の類いはすでに何冊も出版されているし、今後も続々と出てくるに違いない。そして二冊の重要な「自伝」がある(この二冊は今後、大いに参照させてもらうことになるだろう)。地道で綿密な取材や調査に基づく坂本龍一ヒストリー、時間と労力を費やして多数の記録や資料を渉猟したトータルな評伝をものする能力を持った書き手なら、私よりもはるかに適任の方が何人もいる。そもそも私には、まだ一度も聴いたことのない「坂本龍一の曲」が数え切れないほどあるし、それらがどれだけあるのかさえわかっていないのだ。
私にできそうなことは、私がしたいと思うのは、もう少し別のことである。いてもたってもいられなくなった私は、こんなアイデアを思いついた。『12』というアルバム・タイトルにちなんで坂本龍一のディスコグラフィーから12枚のアルバムを選び、それらを一枚ずつ論じてゆく、むろんそれだけではなく、その前後や関連する諸作にも言及しつつ、デビュー作『千のナイフ』から『12』までに流れた半世紀もの時間に点線を引くように辿ってゆく、それをもって「坂本龍一論」とする、というものである。網羅的な作家論や完璧な評伝を目指すのではなく、敢えて12枚に限定したアルバムをじっくりと聴き直すことによって、いわば自分の「耳」を通した坂本論をやってみようということだ。
私は早速、このアイデアを或る月刊雑誌に持ち掛けてみた。アルバム一枚につき連載1回分で全12回=1年間で終了し、その後単行本化する、という企画だった。我ながら良いアイデアだと思ったのだが、残念ながらその雑誌の編集長は首を縦に振らなかった。それにはそれなりの納得できる理由があったのだが、私はゴーサインが出るとばかり思っていたので出鼻をくじかれ、正直がっかりしたが、すぐにこれはまだ機が熟していないということなのだろうと思い直して、そのアイデアはとりあえず封印しておくことにしたのだった。
ところが、それから1ヶ月ほどが過ぎた2月の終わりに『芸術新潮』から突然、原稿依頼があった。坂本龍一特集を企画しているのだが、坂本さんのアルバムから12枚を選んでディスク・レビューを執筆してもらえないか、というのである。私は非常に驚いた。連載を断った雑誌の編集長から話が伝わったのかとも思ったが、それは違っていた(いちおう付記しておくと、その雑誌と『芸術新潮』の版元はまったく別の会社である)。雑誌の連載と特集の企画はもちろん違うが、大袈裟に言えば運命の思し召しのような気がした。むろん実際には、誰しも考えることは同じ、ということなのだろうが。
私は依頼を引き受け、それから約1ヶ月ほどかけて坂本龍一の音盤から12枚を選び、何度も聴き直して、レビューを書き上げて『芸術新潮』に送稿した。その時、坂本さんはまだ存命中であり、担当の編集者によれば特集の企画にもかかわっているということだった。ところが、それから程なくして坂本さんは帰らぬ人となり、結果的に『芸術新潮』2023年5月号は追悼特集号になってしまった。偶然の導きとはいえ、私はこのタイミングで「坂本龍一の12枚のディスク・レビュー」を書けてよかったと思っている。
私はあれから何度も考えた。坂本さんは私が書いた12枚のアルバム・レビューを読んでくれただろうか、読めただろうか、と。たぶん読めなかった、読まなかっただろう。そんな余裕はなかったはずだ(そんなことをする時間があるなら他にすべき/したいことが幾らでもあっただろう)。だが私は、これは正直に述べるが、あのレビューをまず第一に坂本龍一に読んでもらうべく書いたのだ。少なくとも読まれる可能性があるということ、そしてそれが「坂本龍一」について書いた自分の文章を坂本さんが読む最後の機会になるかもしれないということを私は強く意識しつつあれを書いた。私は今でも、坂本さんに読んでもらいたかったと思っている。いや、私はいま綴っているこの文章だって、できるなら坂本さんに読んでほしい、そう思いながら書いている。
3 二人の「坂本」
「坂本龍一の死」が公表された4月2日の夜に、まず中日新聞から、次いで朝日新聞から追悼コメントの依頼があった。それは思いがけないことだった。先に述べたように、私はもうずいぶん長らく坂本龍一にかんする仕事はしていなかったからだ。『async』の時には何か書いたと思うが、今やすっかり音楽ジャーナリズムから遠ざかってしまった私は、『12』も普通にAmazonで購入して聴いたのだ。「世界のサカモト」の追悼記事で自分に声が掛かるとは考えてもみなかった。戸惑いつつもそれぞれ電話で記者の質問に答え、すぐに記事が公開された。その時に思ったことをただそのまま話しただけだったが、特に朝日の記事はかなり多く読まれ、おそらくはそれが呼び水となって追悼関係の仕事が連続して舞い込んだ。そして複数の出版社から「坂本龍一論を書きませんか」というオファーを頂戴した。
坂本さんがこの世界からいなくなるよりも前から私は彼について一冊の本を書きたいと思っていたのだから、それは願ってもない話ではあったが、率直に言えば多少とも複雑な思いがあったのも事実である。いちばん読んでほしい人がこの世からいなくなったことによって、それを書くことが可能になっただなんて、なんだか詐欺を働いているような気がした。しかし、本を書くことだけは決めていた。熟考の末、私は10年以上前に一冊の本(『未知との遭遇』という私にとって重要な本)を一緒に作ったことのある旧知の編集者からの依頼に応えることにした。そして、こうして本連載が始まったわけである。
最初のアイデア通り「坂本龍一の12枚のアルバム」のロング・ヴァージョンをやることも考えたが、短いレビューとはいえ一度やってしまったことだし、私は長編論考としての「坂本龍一論」の構想をいちから練り直してみることにした。そして考えたのが、この「「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代」である。本連載は「12枚」よりはオーソドックスなスタイルで坂本龍一の歩みを辿ってゆくことになるだろう。それは一見すると「評伝」のような装いを纏うことにもなろう。
だがしかし、私の企図はちょっと違う。私の坂本論は、客観的なヒストリーにも、私的なメモワールにも定位することはなく、だが両者の要素をいずれも含みつつ書き進められてゆくことになるだろう。これはアカデミックな研究や論文ではないし、かといってファンによる信仰告白にもならなければ(そもそも私は「坂本龍一のファン」なのだろうか? わざわざ言うようなことでもないが、坂本さんに限らず私は誰かの「ファン」であったことはない)、マニアックな蘊蓄や知識を開陳するつもりもない(し、その能力もない)。
敢えて名前を与えるとすれば、これは「批評」である。私は私なりのやり方で「坂本龍一」を批評してみたい。ここでの「批評」とは、対象の存在理由を問い直し、そこに潜在する可能性を押し開くことである。私がしたいのは、坂本龍一がいつどこで何をしたのかという歴史的な検証でもなければ、何らかの意味で彼の認識や主張を代弁しようとすることでもない。かといって私個人の思いの丈を吐露するだけに終わらせるつもりもない(そんなことに読者は興味を持たないだろう)。私にとって坂本龍一とは、いわば二重の存在である。「坂本龍一」と「坂本さん」。もちろん、この二人の「坂本」は一個の実体に重ね合わされている。私は彼の二重の――しばしば相矛盾することもあるー存在様態を行きつ戻りつしつつ、坂本龍一について考えてゆくことになるだろう(すでにこの文章にも二つの呼び方が混在している)。そこでキーワードとなるのが、題名にも冠した「教授」という呼称である。
追悼コメントや寄稿文にも何度か書いたことだが、私は坂本龍一という人を、彼がその場にいるといないとにかかわらず、一度も「教授」とは呼ばなかった。いつでも「坂本さん」だった。誰もが坂本龍一のニックネームとして知る「教授」は高橋幸宏が名付けたものである。YMO結成以前、幸宏さんがはじめて会ったとき、坂本龍一はまだ東京藝術大学の大学院に在籍していた。当時は大学院生のミュージシャンは非常に珍しかったので、幸宏さんは坂本さんを「教授」と呼ぶことにした。
つまりそれは愛称であり、坂本龍一をそう呼ぶ人々にとっては敬称でもあるわけだが、私が他人をあだ名で呼ぶのが苦手ということだけでなく、このあまりにも世間に行き渡った呼称を口にすることが、坂本龍一を或る一定のイメージに閉じ込めてしまうような気がして、どうしてもそう呼べなかった。気にし過ぎというか、私の自意識過剰であることはわかっていたが、私には「教授」が、「坂本龍一」からも「坂本さん」からも遠く感じられたのだ。
もちろん坂本さん自身にとっても、それはもはや特に深い意味などない、ごく自然な呼び名になっていたのだと思うが、私は自分の坂本論を始めるに当たって、この些細な違和感を大切にしたいと思う。坂本龍一を「世界のサカモト」でも「教授」でもなく、表現と作品と言説と行動の複雑な束から成る「坂本龍一」と、限られた機会ではあれ自分が直接に対峙することがあった、姿形と声と表情を持った、ひとりの生身の人間としての「坂本さん」の交錯において批評すること、「教授」ではなく「教授と呼ばれた男」の肖像を描き出すこと、本論の基本姿勢は、おおよそこのようなものである。
4 読み終えることのできないメモワール
『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』は、文芸雑誌『新潮』の2022年7月号から2023年2月号まで全8回連載され、この6月に単行本として上梓された、坂本龍一の「決定的自伝」(同書オビ文より)である。坂本さんと長年親交があった編集者の鈴木正文による一連のインタビューをもとにしたもので、同じく鈴木氏が聞き手を務めた『音楽は自由にする』(2009年)の姉妹編的な位置付けの一冊である。
坂本さんが生まれた1952年から2008年までの歩みを駆け足で振り返ったのが『音楽は自由にする』だが、続く『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』はそれ以後を扱っている。単行本に附された鈴木氏の「著者に代わってのあとがき」によると、インタビューは2022年の2月2日から10月12日にかけて断続的に行われた。鈴木氏は連載が決まったのは2021年の12月23日だったと記しているので、かなり急ぎの企画だったと言ってよい。それは坂本さんの病状の進行とも関係していただろう。鈴木氏の長文の「あとがき」は、坂本さんの一人称で綴られた本文とはまた別に、坂本龍一の最後の日々を生々しく伝えている。その姿は、読み進めることが苦しくなるほど痛ましい。だが「自伝」を語る/書くことは坂本さんの意志でもあっただろう。彼には言っておきたいことが、言い残すべきことが山ほどあったのだ。
しかし、それらを「坂本龍一からの最後のメッセージ」に収斂させることは今はしないでおきたい。確かに『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』はまぎれもない遺言の書である。『音楽は自由にする』と決定的に違うのは、過去を回想する坂本さんの現在に死の影が射していたということだ。この本で彼は自らの最期を常に意識しながら語っている。この意味で『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』は『音楽は自由にする』の単なる続編ではない。ひとが過去を顧みるのはその時々の現在においてでしかあり得ない。つまり回想される過去には常に回想している現在が滲んでいる。坂本さんは『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』の続きがありえないことをわかっていた。回想される過去が回想している現在に追いついたあと、その先の時間がもはやほとんど存在していないということをよくよくわかっていた。
だが、だからこそ、この切実なメモワールを、「教授」からのラスト・メッセージとしてのみ受け取るのではなく、豊かな細部と謎めいた余白に満ちた、けっして読み終えることのできない書物として、あの美しい『ロラン・バルトによるロラン・バルト』に倣って「坂本龍一による坂本龍一」とでも呼ばれるべき本として、何度でも読み返す必要がある。私の坂本龍一論は、彼自身による二冊の「自伝」に必要に応じて随時立ち寄りつつ、坂本龍一/坂本さんの71年の生を、私なりに、あくまでも批評的に辿ってゆくことになるだろう。
5 「親友」カールステン・ニコライ
『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』の「主人公」はもちろん「坂本龍一」だが、たびたび登場する重要な人物のひとりに、アルヴァ・ノトことカールステン・ニコライがいる。現代アートと電子音楽の二つのジャンルで活躍する、というよりも二つの領域の交点と言ってよい旧東ドイツ出身のアーティスト/ミュージシャンのことを、坂本さんは本の中で何度も「親友」と呼んでいる。カールステンについて最初に言及されるのは、『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』の第一章「ガンと生きる」の「友達という存在」という節である。
「ぼくは昔から、「自分には友達がいない」というのが口癖でした」と坂本さんは言う。そこで20年ほど前に「友達」の定義を考えてみた。「自分が本当に困った瞬間」に「真っ先に電話できるのが友達だろう」というのが、そのときの定義だった。「そして今回、自らの死に直面して改めて、相談したいと思えるひとを数えてみました」。するとすぐに何人か思いつき、自分にも友達がいたことがわかって「それだけで自分は幸せだ」と感じた。そのうちのひとりがカールステン・ニコライだった。
最初の出会いは、彼が池田亮司くんと一緒に、青山のスパイラルでライブをしたときだと思います。カールステンは強面な顔つきをしていて、作る音楽も思いきり前衛的なポストモダンのスタイルだけど、「おとっつぁん」と呼びたくなるような、家族思いの気持ちのいい性格なんですね。それで、会ったその日から仲良くなりました。(『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』)
私はここを読んで嬉しくなった。なぜなら、そのライブは私がプロデュースしたものだったからだ。坂本さんは過去のインタビューでもカールステンとの出会いについて語っている。
坂本龍一(以下、坂本) 1998年秋に青山スパイラルホールで開催された「EXPERIMENTAL EXPRESS 1998」というイヴェントにカールステンたちが参加していたとき、ダムタイプの池田亮司さんに紹介していただいて、お会いしたのが始まりです。ぼくがカールステンの音楽を聴くのは、そのときが初めてでした。90年代のテクノ系かなと予想していたんですが、彼は当時のドイツテクノの流行から自分独自のスタイルをつくり上げていました。(「出会いから20年、坂本龍一とAlva Notoが語るイメージなき創造の立地点」 WIRED 2018.07.2 https://wired.jp/2018/07/21/sakamoto-alvanoto-sonar2018/)
「EXPERIMENTAL EXPRESS 1998」は、私の事務所HEADZがゲーテ・インスティトゥート東京の依頼を受けて企画制作したライヴ・イヴェントで、1998年10月16日と17日の2日間にわたり東京・青山のSPIRAL HALLで開催された。出演者は、オヴァル、トーマス・ケーナー&ポーター・リックス、ノト、ユルゲン・レーブレ、クリストフ・シャルル、池田亮司。この時点ではカールステンはアルヴァ・ノトではなくノトと名乗っており、これが初来日だった。
アーティストの人選も私が担当したのだが、当時はまだ新人と言ってよい存在でありながら、サイン・ウェイヴ(純正音)のみを使った硬質の電子音響作品でにわかに注目されていたカールステン・ニコライを日本に招聘するのは、このイベントにおける私の野心のひとつだった。当日は現場が大変過ぎて坂本龍一が来ているとスタッフから聞いてもご挨拶さえできなかったが、結果として坂本さんとカールステンのその後の四半世紀に及ぶ友情のきっかけを作ったのだと思うと、深い感慨を禁じ得ない。「坂本龍一」と、90年代半ばから2000年代の前半に掛けて疑いなく国際的な音楽シーンの先端を走っていた、アルヴァ・ノトや池田亮司を筆頭とする、いわゆる「電子音響」については、後の章で詳しく述べるつもりである。
6 坂本龍一が生きた時間
たとえばこのように、坂本龍一が生きた時間と私自身の過去は、直接的な経験以外にも、あちこちで交差している。そしてそれは坂本龍一の表現と作品、彼の発言、彼のアティチュード、彼のアクティヴィティとも、さまざまな関係を結んでいる。そこには、変わってゆくことと変わらぬものが、常に両方ある。
音楽に限らず、ジャンルを問わず、あらゆる「作品」は、いわば二通りの時間を持っている。それが産み落とされた、誕生した時と、誰かがそれを体験=鑑賞する時。「12枚のアルバム」は私が最初に考えたのとは別のかたちで実現することになったが、私が坂本龍一の或る曲を聴くとき、それは私にとっては常に現在であり、しかしその曲にはそれが生まれた時が刻印されているのだから、ある意味で私は二つの時間の距離と隔たりを聴いているのだ。
『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』の「友達という存在」の次の節は「時間の疑わしさ」という見出しが付けられている。「音楽は時間芸術だと言われます。時間という直線の上に作品の視点があり、終点に向かって進んでいく。だから時間はぼくにとって長年の大きなテーマでした」と坂本さんは言う。
それでも自分自身が健康だった頃は、どこか時間の永遠性や一方向性を前提としていたところがあったのですが、生の限定性に直面した今、これまでとは違った角度から考え直す必要があるのではないかと感じています。(『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』)
坂本龍一は「時間」について再考するために「アリストテレスから始まり、アウグスティヌス、カント、ハイデガー、ベルクソン、そして現代の物理学者らが時間について語ったこと」を読みあさり、そして「ニュートンが唱えた「絶対時間」の概念は間違っている」という気づきを得る。「時間は言ってみれば脳が作り出すイリュージョンだ」というのが、坂本さんの差し当たりの「結論」だった。時間は(私たちの脳の中にしか)存在しない。それは死は存在しない、ということと、どこか似ているのではないか。音楽家にとって(あらゆる芸術家にとって)、時間とは最大のテーマであり、すべての試みと営みの大前提であり、どこまで行っても最後に立ちはだかる壁である。それは坂本龍一にとっても同じだったし、余命宣告を受けたあとはますますそうだった。
そもそも『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』という題名自体、ひとりの人間が持ち得る時間の有限性を、その残酷さを表している。この言葉は坂本龍一が音楽を手掛けたベルナルド・ベルトルッチ監督の『シェルタリング・スカイ』(1990年)のラストで、原作者でもあるポール・ボウルズが(自分の小説からそのまま引用して)口にするものだが、坂本さんはこの印象的な台詞を我が事として受け止め直し、最期のメモワールのタイトルに採用した。
だが、このとき坂本龍一は40歳にもなっていなかったのだ。その時点では、彼は自分があと何回、満月を見るだろうと問うことはなかったはずだ。仮に問うてみたとしても、その答えは「数え切れない」だっただろう。そして実際、それから数え切れないほど何度も満月は昇り、坂本龍一もそれを見たに違いない。だが、それはほんとうは数えられる回数だった。それは無限ではなかった。そして彼が満月を見た回数は、もう増えることはない。
7 『12』の曲順に秘められた哲学
『12』は全十二曲の曲名が全て年月日になっている。「20210310」「20211130」「20211201」といった具合に。それはその曲が録音された日付を示している。基本的に一曲目から時系列の順に並べられているのだが、11曲目の「20220404」と十二曲目「20220304」のみ順序が入れ替えられている。2022年4月4日が、このアルバムの最後の録音日である。普通に考えればその日に録音した曲を最後に置くはずだが、なぜだか坂本龍一はそうしなかった。「20220404」のあと、ちょうど一ヶ月時間が巻き戻って、アルバムは2022年3月4日の日付のある曲で終わるのである。
これはどういうことだろうか? 一枚のアルバムとして聴いた際の構成、12曲の流れを吟味した結果、ここだけ時間軸を逆にするほうがよいという判断がなされただけで、他に意味はないのかもしれない。確かに「20220304」は12曲中もっとも短い曲であり、コーダ(終曲)に相応しい。だがしかし、私はこうも思うのだ。坂本龍一は、いちばん最後に録音された曲をアルバムの末尾に置くことによって、『12』という作品を、そしておそらくは自分の人生を、そのように綺麗に閉じることをよしとしなかったのではないか、と。もっと言うなら、そうはせずに現にある並びに敢えてするのが、坂本龍一なのだ。録音された順に並べることを自分自身でルールとして定めたのだとしても、むしろだからこそ、最後の最後に自らそのルールを破ってみせるのが、私の知っている「坂本龍一」なのである。それはルール=掟の制定と放棄をひとりの人間が兼ね備える、すなわち責任と自由の両立である。坂本龍一とはそういう人だった。
そしてまたここには、先に述べたクロノロジカルな「時間」への疑いと、「終わり」への抵抗の身ぶりがある。時間を巻き戻すこと。ラストシーンとその前の場面を、ジャン=リュック・ゴダール に倣って「繋ぎ間違え」てみせること。たとえ終わりが遂に必ずやってくるのだとしても、幕を閉じるのではなく、いったん閉じた後にもう一度開いてから終わること。私には『12』の曲順に、坂本龍一のこのような思いが――それは哲学と呼んでもいい――秘められているような気がしてしまう。穿ち過ぎかもしれないが、そう思う。
まだ始まったばかりだというのに、こうしていつまでも書き続けることが出来てしまう。だが、ひとまず前口上はこのくらいにしよう。次章は時間を遡って、坂本龍一が「教授」と呼ばれる以前と、そんなあだ名が付けられた時期のことを扱う。つまり、彼のはじまりの時代である。