18世紀以降
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ガラスに鉛、アルミナ、タリウムを混入して屈折率と分散を高める製造法はバロック後期から行われるようになった。こうして製造されたガラスはますます光り輝くようになり、新たにカットすれば驚くほど見事なダイヤモンド類似石になりえた。ラインストーン、ペースト、ストラスといった名で知られたこの種のちゃちな類似石は、アンティーク・ジュエリーの世界ではごくふつうに用いられている。よってこの種の石については、ジュエリー自体に骨董的価値がある場合もありえるので、ガラスだからといって資産価値が著しく落ちるとは限らない。有鉛化によりガラスが柔らかくなった(モース硬度6以下)ことで、ラインストーンのファセット(カット)面やその縁はより早く丸められ、傷つけられる。それとともに貝殻状断口、気泡、鋳型の継ぎ目といった特徴が中倍率程度で見つけられるため、ガラス製イミテーションの鑑定は容易である。近代になるとカットではなく成型による模造がごく一般的となったが、ファセット面は凸凹で、縁は相変わらずすぐに丸まってしまう。さらには鋳型に入れられた際についた傷や線が見られる。張り合わせ石など、ガラスは他の素材と組み合わされイミテーションに用いられることもある。
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18世紀以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:47 UTC 版)
18世紀から19世紀前半にかけては、アムステルダムの繁栄にも陰りが見えた。イギリスやフランスとの相次ぐ戦争はアムステルダムの富を搾取した。ナポレオン戦争の頃がどん底であった。しかし、1815年にオランダ連合王国が建国された頃から徐々に復興し始めた。 19世紀終わり頃は、2度目の黄金時代と呼ばれることもある。アムステルダム国立美術館、アムステルダム中央駅、コンセルトヘボウが建てられた。同じ頃、産業革命がこの地に到達した。アムステルダム・ライン運河が開通し、アムステルダムからライン川へ直行ルートが開かれた。北海運河も開通し、北海への最短ルートを提供した。この2つのプロジェクトの完成は、欧州内陸部と外部との通商を活発にした。 第一次世界大戦の少し前には市域が拡大し、新市街が拡張された。第一次大戦ではオランダは中立国であったが、アムステルダムは食糧不足と(暖房用の)燃料不足に苦しんだ。物不足から市民の暴動が起き、何人かが犠牲となった。 第二次世界大戦では、1940年5月10日にナチス・ドイツがオランダに電撃侵攻を開始。侵攻開始3日後の5月13日、政府は首都機能をロンドンへ移転、さらに翌5月14日には降伏してドイツに占領された。 ドイツは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の友党的存在のオランダ国家社会主義運動(オランダ・ナチス)による文民政権をアムステルダムに発足させ、占領政策に協力させた。戦争の最後の1か月間は通信手段が全て奪われ、食料と燃料の供給も絶たれた。多くの住民が食料を得るため農村に向かった。犬や猫、砂糖大根までもが生きるために食料とされた。アムステルダム市内のほとんどの樹木は切り倒され燃料とされた。また収容所送りになったユダヤ人が住んでいたアパートは取り壊され、木材は燃料とされた。 第二次世界大戦後、アムステルダムは復興し、再び欧州の主要都市となった。
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