1リーグ時代
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規定投球回(年によっては試合数や完投数が基準である)を選考条件として掲載 年度選手名所属球団勝率1936秋 景浦將 大阪タイガース 1.000 1937春 沢村栄治 東京巨人軍 .857 1937秋 御園生崇男 大阪タイガース 1.000 1938春 御園生崇男 大阪タイガース .909 1938秋 V.スタルヒン 東京巨人軍 .905 1939 若林忠志 ※1 大阪タイガース .800 1940 須田博 ※2 東京巨人軍 .760 1941 森弘太郎 ※3 阪急軍 .789 1942 広瀬習一 東京巨人軍 .778 1943 藤本英雄 東京巨人軍 .756 1944 若林忠志 阪神軍 .846 1946 藤本英雄 東京巨人軍 .778 1947 御園生崇男 大阪タイガース .750 1948 別所昭 南海ホークス .722 1949 藤本英雄 読売ジャイアンツ .774 赤太字はNPB最高 (備考) ※1 勝率1位は御園生崇男(大阪タイガース、勝率.824) ※2 勝率1位は三輪八郎(阪神軍、勝率.762) ※3 勝率1位は須田博(東京巨人軍、勝率.833) いずれも理由は不明ながら、勝利数の制限があったものと思われる。
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1リーグ時代
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「天候不順以外で中止・打ち切りになった日本プロ野球の試合」の記事における「1リーグ時代」の解説
年月日チーム球場備考1937年10月27日 東京巨人軍 - 東京セネタース 後楽園スタヂアム セネタース1点リードの9回裏1死1・3塁の巨人の攻撃で、水原茂の投手ゴロが併殺崩れとなりその間に1点が入ったが、セネタース側のアピールで守備妨害となり試合終了。これに対し巨人は提訴を行い、11月30日に当該試合を無効として一旦は再試合開催が決定するも、順位への影響がないことから12月9日に中止が決定した。 1938年3月15日 東京巨人軍 - 名古屋金鯱軍 洲崎球場 試合中に東京湾の埋め立て地にある洲崎球場が満潮による水位上昇で浸水したため、5回ノーゲームとなった。 1941年5月20日 阪神軍 - 阪急軍 後楽園スタヂアム 7回表、阪急の日比野武の二塁盗塁の際、島秀之助塁審が一旦アウトの判定をした後、阪急側の抗議で判定をセーフに変更し、阪神側も抗議をしたため試合が紛糾。1時間以上中断した後、後に変則ダブルヘッダーの第2試合が控えていたこともあって審判団はノーゲームを宣告し再試合を行うこととした(当時は「7回終了で試合成立」という規定になっており、またナイター設備もなかった)。 1942年4月18日 東京巨人軍 - 黒鷲軍 後楽園スタヂアム ドーリットル空襲の空襲警報発令のために東京巨人軍 - 黒鷲軍戦が中止、名古屋軍 - 阪神軍戦が打ち切りとなった。 名古屋軍 - 阪神軍 阪神甲子園球場 1942年4月21日 阪神軍 - 大洋軍 阪神甲子園球場 空襲警報発令の為に打ち切りとなった。この後、日本野球連盟は空襲警報発令時の対応マニュアルを急遽作成して全チームに通達した。 1944年6月17日 東西対抗試合 後楽園スタヂアム アメリカ軍の航空部隊が東京を空襲し開催中止となった。 1945年 全試合 (省略) 1944年11月の時点で、太平洋戦争激化のためすべての試合が中止となった。「1945年の日本プロ野球」も参照 1949年 以下3試合読売ジャイアンツ - 大陽ロビンス南海ホークス - 大陽ロビンス以下2試合阪急ブレーブス - 東急フライヤーズ大映スターズ - 大阪タイガース南海ホークス - 中日ドラゴンズ以下1試合読売ジャイアンツ - 阪急ブレーブス読売ジャイアンツ - 大映スターズ読売ジャイアンツ - 大阪タイガース阪急ブレーブス - 大映スターズ大映スターズ - 中日ドラゴンズ大映スターズ - 大陽ロビンス備考いずれも☆ (省略) 10月中旬からサンフランシスコ・シールズとの日米野球が開催されたため、約3週間公式戦が中断。その後再開したものの11月下旬になっても日程を完全に消化できなかったため、11月29日をもって公式戦を打ち切り。左記の合計18試合が未消化のまま閉幕した。
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1リーグ時代
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「オリックス・バファローズ」の記事における「1リーグ時代」の解説
阪神急行電鉄(現:阪急電鉄株式会社)は1920年に日本最初のプロ野球球団とされる「日本運動協会」の経営を引き取り「宝塚運動協会」として運営していたが1929年7月に解散。後の阪急ブレーブスとの球団としての繋がりはない。しかし小林一三はいずれプロ野球時代が来ると予見。1935年に読売新聞社が大日本東京野球倶楽部を結成したのを受けて、小林はアメリカ出張中にワシントンから電報で球団設立を指示し、1936年1月23日に大阪阪急野球協会が設立される。ライバル企業である阪神電気鉄道が立ち上げた大阪タイガースに対抗するため、設立を決意したとも言われる。発足当時の球団で球場を自前で新たに建設することを計画したのは阪急だけである。小林一三が慶應義塾大学出身だったこともあり、宮武三郎、山下実、山下好一ら慶應義塾大学のスター選手を入団させ、初代監督にも同OBの三宅大輔を招いた。同年2月5日に結成された日本職業野球連盟に参加。球団名に企業名を入れた日本で最初のプロ野球球団である。 1936年 トーナメント制の夏季の大阪大会で首位になっている。1937年5月1日、本拠地球場となる阪急西宮球場が開場、春季は8球団中4位となったが監督の三宅は妥協を許さぬ厳しい姿勢が選手の反発を招いて解任され、村上実が秋季の指揮をとるがチームは投手陣が弱く粘りがないとされ、8球団中7位に終わっている。村上の後任には山下実がプレイングマネージャーで就任。 1938年 投手陣の健闘で春、秋共に3位となるが、上位の首位の巨人や2位のタイガースにはどうしても勝てないという状況だった。1939年、この年より1シーズン制通しての成績で優勝、順位を決め、便宜上春夏秋の3季制としたが、春季は投手陣が踏ん張り9連勝もあり首位となっているが、巨人には未勝利のままで、年間を通じても巨人、大阪に次ぐ3位に終わっている。 1940年 井野川利春を4番選手兼任監督に迎える。森弘太郎が28勝を挙げ、山田伝が打率5位になるが3年続けて巨人、大阪に次ぐ3位に終わる。1941年、戦局悪化で各球団共に選手の応召が続き戦力が低下するが、森弘太郎がノーヒットノーランを達成するなど30勝を挙げ、最多勝となり、チームも勝率.631の成績を挙げるが、首位巨人と9ゲーム差の2位に終わっている。1942年以降も応召が続き8球団中4位、1943年、選手兼任監督の井野川が応召され西村正夫が監督になるが8球団中7位。1944年、夏季終了時点で応召による選手不足でリーグ戦続行が不可能となり、途中打ち切りとなり3位に終わっている。 1945年 西宮球場の倉庫でボールやバットが保管されていたこともあり、11月の戦後プロ野球初試合となる東西対抗戦が神宮球場で開催され、1946年よりリーグ戦が再開される。他球団に比べて、用具がそろっていたことや野口二郎や今西錬太郎が加入したことで、阪急の下馬評は高かったが、投手陣が6月に調子を落とし、長打力不足もあって、チームは8球団中4位に終わる。 1946年 リーグの愛称義務化により、チーム名を「阪急ベアーズ」と改称したものの、オープン戦での成績が悪く、「ベアー」という単語も投資の世界で縁起の悪い言葉であることから、開幕前の4月18日までに阪急ブレーブスに再改称した[リンク切れ]。 1947年 総監督に浜崎真二、西村正夫が助監督、これに井野川利春も復員してきて助監督という首脳陣となった。野口二郎が24勝、今西錬太郎が21勝を挙げるが8球団中4位に終わり、オフには青田昇が巨人に移籍。1948年、投手は良いが、青田が抜けて長打力不足となったのが響き本塁打がリーグ最低の25本で、3年連続8球団中4位に終わる。1949年、長打力不足はこの年も続き、投手陣では天保義夫と今西錬太郎の2人で43勝をあげ、対巨人戦では11勝8敗と勝ち越すがそのうち7勝は天保が挙げており、この年は2位となった。この年のオフ2リーグ分立に伴い、阪急はパシフィック・リーグ所属となる。
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