ルキウス・コルネリウス・マルギネンシス・ウリティヌス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:23 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ルキウス・コルネリウス・マルギネンシス・ウリティヌス L. Cornelius Ser. f. P. n. Maluginensis Uritinus | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | コルネリウス氏族 |
官職 | 執政官(紀元前459年) |
ルキウス・コルネリウス・マルギネンシス・ウリティヌス(Lucius Cornelius Maluginensis Uritinus)は共和政ローマの政治家、軍人。紀元前459年に執政官を務めた。
経歴
紀元前459年に執政官に就任、同僚執政官はクィントゥス・ファビウス・ウィブラヌスであった[1]。
歴史家ティトゥス・リウィウス(紀元前59年頃 - 17年)によると、ルキウス・コルネリウスは敵軍の攻撃に備えてローマに留まり、他方クィントゥス・ファビウスはウォルスキを攻撃し、アンティウム(現在のアンツィオ)前面を遮断した[2]。ハリカルナッソスのディオニュシオス(紀元前60年 - 紀元前7年以降)は、ルキウス・コルネリウスがアンティウムを攻撃したとする。ルキウスはローマの植民地であったアンティウムを包囲し、ウォルスキとアンティウムの反乱軍に勝利した[3]。
両者の話に相違はあるが、リウィウスもディオニュシオスもクィントゥス・ファビウスがアエクイに占領されていたトゥスクルム(en)を奪還したという点では一致している[1][4]。
両執政官はローマに戻り、凱旋式を実施した[5]。また、4年前に護民官ガイウス・テレンティリウス・ハルサ(en)が提出していた法案に対する投票を阻止した(この法案はこの後も長期間審査され、ローマ初の成文法である十二表法が成立する)。
また、この年に第10回目の国勢調査が実施され、ローマ市民は117,319人(兵役義務がある成人男子)であるとされた[6]。
参考資料
- ^ a b ハリカルナッソスのディオニュシオス『ローマ古代史』、X, 20.
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、III, 22-23.
- ^ ハリカルナッソスのディオニュシオス『ローマ古代史』、X, 20-21.
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、III, 23.
- ^ ハリカルナッソスのディオニュシオス『ローマ古代史』、X, 21.
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、III, 24.
関連項目
公職 | ||
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先代: プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ II ガイウス・クラウディウス・インレギッレンシス・サビヌス | 執政官 同僚:クィントゥス・ファビウス・ウィブラヌス III 紀元前459年 | 次代: ガイウス・ナウティウス・ルティルス II ルキウス・マヌキウス・エスクィリヌス・アウグリヌス |
公職 | ||
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先代: プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ ガイウス・クラウディウス・インレギッレンシス・サビヌス 紀元前460年 | ローマのケンスス 同僚:クィントゥス・ファビウス・ウィブラヌス 紀元前459年 X | 次代: 初代ケンソル ルキウス・パピリウス・ムギッラヌス ルキウス・センプロニウス・アトラティヌス 紀元前443年 XI |
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