古代
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古代(こだい、英語: antiquity)とは、世界の歴史の時代区分で、文明の成立から古代文明の崩壊までの時代を指す。「歴史の始まり」を意味する時代区分である[注 1]。古典的な三時代区分の一つであり、元来は古代ギリシア・古代ローマを指した(古典古代)。歴史家にとっては語ることのできる歴史の始まり(書き出し)を意味した。考古学の発達が歴史記述の上限を大幅に拡大したと言える。
各国の古代
古代の終始については、政治史的観点と社会史的観点から様々な説がある。代表的なものは次のようになる。
西洋史
西洋史においては、古代ギリシアにおけるエーゲ文明の成立から西ローマ帝国の崩壊(476年)まで[注 2]。このほか、ローマ帝国の3世紀の危機から7世紀までを「古代末期」とする時代区分もある。
東洋史
中国史
日本史
- 日本史:通常、縄文時代、弥生時代、古墳時代もしくは飛鳥時代から平安時代中期または後期まで。始期については古代国家(ヤマト王権)の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている[1]。終期(中世との画期)についても様々な見解があり、政治権力の分散、武士の進出、主従制、荘園公領制の確立といった中世的諸特徴が出現する11世紀後半、政治史的な区分としては白河上皇の院政開始(1087年)までという見解が主流である。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある[2]。一方で中世を武士の時代と定義づけ、古代と中世の画期を保元の乱(1156年)に求める考え方も伝統的に存在する(『愚管抄』の「ムサノ世」という一文に依拠する)[3]。西洋史や中国史との接続の観点や建築史的な観点から日本に古代はなかったとする方が自然であるとの指摘もある[注 3]。ニコライ・コンラドやコンスタンチン・ポポフなど海外の日本史研究者には奈良時代を中世としている例もある[4]。古代や中世をいつにするかという日本での時代区分は、ヨーロッパで生まれたマルクス主義史観をそのまま日本にも適用しようとした点などに問題がある[5]。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念として、古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。
朝鮮史
インド史
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発展段階史観での古代
発展段階史観では、無階級社会の原始に対し階級社会の古代へと発展したと理解し、古代を階級社会の第1段階であると捉えている。古代社会または古代奴隷制社会という。世界史的には奴隷制段階の古代と定義、区分する。こうした学説では古代とは奴隷が生産の主体を担った発展段階と定義される。しかし今日では、こうした単線的発展段階説は疑問視されている。現に古代とされる時代に多くの地域で奴隷的存在は普遍的に見られたが、古典古代とよばれる古代ギリシア、古代ローマの一時期のように、そうした人々が生産の主体になっていた社会は必ずしも多くないとされる。他の諸国では複雑な形態をとった原始無階級社会から階級社会への発展がみられた。
脚注
注釈
- ^ 「古代生物」といった場合は「地質時代に存在していた生物」を意味しており、歴史学の「古代」に存在した生物ではない。
- ^ この分類には、古代ギリシアとローマをまとめて古典古代と呼ぶ、欧米の文化的伝統、欧米人のアイデンティティ確立にともなう価値観が内在していると指摘される。東京大学をはじめとする日本の歴史学界も、この概念に基本的に従っており、古代オリエント史を西洋史の冒頭に置く分類は斥けられる場合が多い。もっとも、欧米でも、人類の歴史がオリエントから始まったとする見方から、古代オリエント史を西洋史の冒頭に置く場合がある。近藤和彦編『西洋世界の歴史』(1999年、山川出版社)中、桜井万里子「古代地中海世界」参照。
- ^ 井上章一『日本に古代はあったのか』(2014年、角川選書)
出典
参考文献
- 佐藤進一『日本の中世国家』岩波書店、1983年。ISBN 4000266683。
関連項目
上古
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 09:00 UTC 版)
縄文時代は縄文海進により、鵠沼を含む湘南砂丘地帯は浅い海底であった。従って鵠沼地区には縄文時代の遺跡はない。 弥生時代から古墳時代、海面が下がり北部から陸化が進んだ。鵠沼地区北部の横須賀遺跡・西宮越遺跡などから弥生土器や須恵器・土師器が出土しているが、まとまった集落遺跡や大規模な古墳は見つかっていない。 天平7年(735年)閏11月10日 - 相模国司、相模国封戸租交易帳を作成し中央政府に報告。鵠沼付近を表す土甘郷50戸が見られる。 大同3年(808年) - 現在の神明宮の位置に延喜式内社石楯尾(いわだてお)神社が創建された。石楯尾神社の場所は異説もある。 天長9年(832年) - 石楯尾神社鎮座地に皇大神宮が創立し、社殿が造立された。 醍醐天皇の頃 - 皇大神宮(藤沢市)は現在の鵠沼をさす相模国土甘郷の総社に列せられ、相模国土甘郷総社神明宮と称される。 長治元年(1104年) - 相模国の住人鎌倉景正(平景正、鎌倉権五郎)、高座郡の私領を開発、伊勢神宮に寄進を企画→大庭御厨(おおばのみくりや) 永久4年(1116年) - 大庭御厨、国司により正式に認められ、御厨の田畑の検注がなされる。 天養元年(1144年)9月 - 鎌倉にいた源義朝が大庭御厨に乱入。神人8人死傷、鵠沼郷の魚・大豆・小豆等を奪取と伊勢神宮の記録天養記に出てくる。これが鵠沼という地名の初出である。
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