伊勢白粉(射和軽粉)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 22:59 UTC 版)
丹生鉱山と関わりの深い伊勢白粉についても、ここで紹介する。 丹生鉱山に近接する三重県松阪市射和地区を中心に生産されていたので射和軽粉ともいう。また、御所白粉、ハラヤともいう。水銀系の白粉の成分は、塩化第1水銀(甘汞)であり、透明の結晶体である。原料は水銀の他に、食塩・水・実土(赤土の一種)である。 製法としては、水銀・食塩・水・実土をこね合わせ、鉄釜に入れて粘土製の蓋である「ほつつき」で覆って約600℃で約4時間加熱する。すると、「ほつつき」の内側に白い結晶が付着する。これが塩化第1水銀であり、これを「ほつつき」から払い落とし、白い粉状にしたものが水銀白粉である。 白粉は鎌倉時代に中国から製法が伝来したとされる。当時の白粉の製法には水銀の存在が不可欠であり、丹生鉱山が存在するこの地域に伝播することになった。文安年間(1444年ころ)には、窯元が83軒ほど存在していたという。1453年(享徳2年)には三郡内神税御注文に、軽粉窯元に対して課税がなされた。鎌倉時代から軽粉座が存在し、これは伊勢神宮が本所となっていた。その後、本所は公家である京の薄家となり、現地に代官が置かれる事となった。伊勢射和白粉公用として、年に6貫文が本所に納められた。その後、本所は北畠家等に移った。 射和の軽粉商は、白粉の他にも小間物等も扱っていた。当初、白粉は化粧品であると同時に、腫れ物といった皮膚疾患を治す薬品として貴族の間で珍重されていた。また、時としては外用ばかりでなく、腹痛の内用薬としても用いられていた。これが一般に広まったのは、伊勢神宮の御師が諸国の檀那に大神宮のお祓いと共に白粉を配るようになった事がきっかけである。室町末期には鉛白粉が輸入されだし、丹生鉱山の水銀から輸入水銀に原料を転換している。鉛白粉の普及に押されていたが、16世紀頃に梅毒が流行、18世紀頃になると伊勢白粉は駆梅薬として再び注目される事となった。また、シラミ除けの薬として人ばかりでなく牛馬にも使用された。 しかし、窯元も17軒程度に減少し、軽粉座も崩壊して江戸時代には株仲間となった。1620年(元和6年)には、鳥羽藩領射和から正米29石5斗が納税され、1624年(寛永10年)以降は25石に減少させて納税した。江戸時代には新規の窯元設立を規制し、16基に制限された。 明治時代に入ると製造過程で水銀中毒が続発した事や洋式の第1塩化水銀の製法が普及した事、医薬品の法的規制の強化によって窯元は減少していった。1953年(昭和28年)に最後の窯元が廃業して伊勢白粉は途絶した。
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