信濃での俳諧の隆盛
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一茶は帰郷を見据えて北信濃の俳諧結社の師匠となるために努力をしていった。それにはまず北信濃の地に俳諧結社が成り立つだけの俳諧愛好者がいることが不可欠である。信濃では18世紀に入ると俳諧が盛んになってきた。享保年間以降、有力商人や僧侶などと関西方面の文人との間に俳諧を通じた交流が始まり、次第に農村地帯の豪農、商人層にまで広がっていった。 18世紀末、信濃の農村に大きな変化が訪れていた。これまでの米作り中心の農業から養蚕、綿、タバコなどといった換金作物栽培の急速な発展である。中でも養蚕業の発展は目覚ましかった。養蚕の発展は必然的に製糸業の発展を伴い、養蚕や製糸業に投資して巨利を得た豪農層は、零細農民の土地を次々と取得して大地主化し、一方、土地を失った農民たちは小作や発展してきた養蚕・製糸業などに雇われて生計を維持するようになった。信濃での養蚕・製糸業の発展は地域経済の活性化を伴ったので、時流に乗った豊かな農民、商人が増える一方で、土地を失った貧農層も増大し、社会格差が拡大していた。豊かな農民、商人たちの中には学芸への関心が高まっており、俳諧の社中も信濃の各地で結成されるようになっていた。一茶が故郷信濃で結成した俳諧結社、一茶社中の門弟の主力は、時流に乗ったいわば勝ち組の農民、商人たちであった。 一茶以前に北信濃の地に充実した俳諧結社を組織していた人物に、戸谷猿左(えんざ)、宮本虎杖の名が挙げられる。猿左は一茶よりも40歳近く年長であり、善光寺を中心とした長野市、須坂市付近を中核として、一茶の故郷の信濃町付近、そして上田市から佐久市付近まで門人を広げ、没する享和元年(1801年)まで、つまり一茶が郷里信濃で活躍するようになる以前に一大俳諧結社を組織していた。一方、宮本虎杖は旧更級郡、埴科郡から佐久方面に広がる俳諧結社を組織していた。虎杖は天明4年(1784年)に独立した俳諧師として北信濃で活躍を始め、長野市以北の地を主な地盤とした猿左のライバルとして、充実した俳諧結社を組織した。虎杖は自派の勢力拡張に熱心であった。享和元年(1801年)に猿左が亡くなると弟子の宮沢武曰を長野市内を拠点に俳諧師匠として活動させ、文化9年(1812年)には、自らの後継者としてかつての門人であり、大磯の鴫立庵にいた倉田葛三を呼び戻した。 文化9年(1812年)、大磯の鴫立庵から倉田葛三が、そして一茶が江戸から戻り、ともに俳諧師匠として北信濃の地で活躍を始める背景には、当時の北信濃は一種の俳諧ブームのような状況下にあったことが挙げられる。俳諧ブームの中、北信濃では本格的な俳諧を学びたいという人たちが増えていた。鴫立庵にて俳諧の研鑽を深めていた倉田葛三、そして江戸を始め各地で本格的に俳諧を学んできた一茶は、ともに北信濃の俳諧愛好者たちに嘱望された人材であった。
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