千葉三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/26 02:21 UTC 版)
千葉 三郎 ちば さぶろう | |
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生年月日 | 1894年1月25日 |
出生地 | 日本 千葉県茂原市 |
没年月日 | 1979年11月29日(85歳没) |
死没地 | メキシコシティ |
出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) プリンストン大学 |
前職 | 時事新報社取締役 南米拓殖取締役 早川石油専務取締役 東京農業大学学長 |
所属政党 | (実業同志会→) (無所属→) (民主党→) (国民民主党→) (改進党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 | 勲一等旭日大綬章(1975年) |
第9代 労働大臣 | |
内閣 | 第1次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1954年12月10日 - 1955年3月19日 |
公選初代 宮城県知事 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1945年11月3日 - 1948年12月27日 |
衆議院議員(2期目) | |
選挙区 | (宮城県第1区→) 千葉県第3区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1949年1月24日 - 1976年12月9日 |
選挙区 | 千葉県第3区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1925年4月28日 - 1930年1月21日 |
千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)11月29日[1])は、大正-昭和期の政治家。
来歴・人物
1894年(明治27年)、千葉県茂原市に生まれた。錦城中学、一高を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学仏法科を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社するも、ほどなくして退職し、米国プリンストン大学に留学、石油業を学んだ。同大大学院を修了し、1922年(大正11年)に帰国。
帰国後は当時の鐘紡社長・武藤山治の片腕となり、大日本実業組合連合会理事に就任した[2]。1925年(大正14年)、旧千葉2区における衆議院補欠選挙に、武藤が会長を務める実業同志会から立候補、初当選した。1928年(昭和3年)に再選され、戦前・戦後を合わせて通算12回当選した。
1932年(昭和7年)、政界を離れて 時事新報社重役に就任、芦田均、津田信吾、石山賢吉らと親交を持った[2]。1932年(昭和7年)、武藤が社長を務めていた「南米拓殖会社」に取締役として入社、ブラジル・アマゾン開拓事業に従事した。1934年(昭和9年)には、早川石油(後の昭和シェル石油→出光興産)専務になり、1938年(昭和13年)には日本油化工業を設立して人造石油の開発に着手、1943年(昭和18年)には日本硫鉄社長に就任するなど一貫して石油・エネルギー関連事業に従事[2]。そのかたわら昭和産業の引きで、一時期昭和傘下の相模鉄道社長(1939年 - 1941年[3])を務めている。
1945年(昭和20年)5月、工業技術院次長に就任したが、終戦直後に辞任した。千葉は同年9月、当時の内閣総理大臣・東久邇宮稔彦王に建白書を提出、国家再建政策を示すとともに、「地方自治に有能な人材を廻すべき」、「私の如きも千葉県知事なら勤まります」と自薦した[2]。同年10月には、幣原内閣の内務大臣・堀切善次郎より、「米軍部隊が多く駐留しているため、米国留学や海外視察の経験があり、英語のできる知事が必要」との理由から宮城県知事への就任を要請され、同年11月3日に仙台市に着任した[2]。就任後の施政方針演説において千葉は、「自主能動の民主的経営」と「民間公開主義」という所信を表明した[2]。また、このとき秘書課長兼調査課長に据えるために連れて行ったのが、後に法務大臣となる後藤正夫であった。1947年(昭和22年)、初の知事公選が実施されたが当選し、1948年(昭和23年)12月まで宮城県知事職に留まった。
1949年(昭和24年)、第24回衆議院議員総選挙旧宮城1区にて民主党から立候補し当選した。翌1950年、民主党幹事長となった。次の1952年総選挙からは選挙区を出身地の旧千葉3区に移し、1954年(昭和29年)に組閣された第1次鳩山内閣には労働大臣として入閣した。1955年(昭和30年)の保守合同により自由民主党結成に参加。
保守合同後は岸信介派-福田赳夫派に所属した。1956年(昭和31年)には産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)に就任。労働大臣退任後は1955年(昭和30年)から1959年(昭和34年)まで東京農業大学の学長も務め、また当時の鐘紡社長・武藤絲治(武藤山治の次男)に請われ、1965年(昭和40年)から1974年(昭和49年)まで鐘紡の監査役を務めた。1960年には青木一男・木村篤太郎らとともに右派議員グループ「素心会」を結成し、代表世話人となるなど、自民党タカ派議員のリーダーとなり、改憲、自主防衛力の増強、戦後教育の刷新などを熱心に主張し続けた[2]。また、治安対策特別委員会の委員長を務め、治安の確立にも腐心した[2]。
1976年(昭和51年)に石橋一弥に地盤を譲って政界を引退した後は、ブラジルに燃料アルコールの原料となる熱帯イモ「マンジョカ」の栽培地をつくる計画に熱中したが、1979年(昭和54年)11月29日、メキシコシティにて客死した。
栄典
エピソード
千葉市長の荒木和成の差止めにより頓挫していた新東京国際空港(現・成田国際空港)への航空燃料輸送用パイプラインについて、「千葉県の発展に寄与するところ大な空港建設に反対するとは、もってのほか。保守が圧倒的に強い千葉3区にパイプラインを通せ」と、木更津-東金-成田のルートを提案したが、距離があまりにも遠大であるため実現しなかった[6]。
脚注
- ^ “千葉三郎(ちば さぶろう)とは”. コトバンク. 2019年2月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 功刀俊洋「1946年の市長公選運動(3)」『行政社会論集』第9巻第1号、福島大学、1996年7月、1-71頁、CRID 1050001337527577472、hdl:10270/633、ISSN 0916-1384、NAID 110000505123。
- ^ 相模鉄道の概要
- ^ “旧・勲一等瑞宝章受章者一覧”. 中野文庫. 2020年9月28日閲覧。
- ^ “旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧”. 中野文庫. 2020年9月28日閲覧。
- ^ 佐藤文生 (1978). はるかなる三里塚. 講談社. p. 164
公職 | ||
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先代 小坂善太郎 | 労働大臣 第9代:1954年 - 1955年 | 次代 西田隆男 |
先代 新設 | 宮城県知事 公選初代:1947年 -1948年 | 次代 佐々木家寿治 |
議会 | ||
先代 奥村又十郎 | 衆議院大蔵委員長 1953年 -1954年 | 次代 井上良二 |
官職 | ||
先代 生悦住求馬 | 宮城県知事 官選第35代:1945年 -1947年 | 次代 渡辺男二郎 |
名誉職 | ||
先代 益谷秀次 | 最年長衆議院議員 1972年 - 1976年 | 次代 船田中 |
千葉 三郎(ちば さぶろう)
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「ドラフトキング」の記事における「千葉 三郎(ちば さぶろう)」の解説
岩手学院大学の監督。その手腕から名伯楽と呼ばれており、教え子たちの成長を何よりも楽しみにしている。郷原も知らなかった菊地原を高校生の時点で指導をしており、高校卒業後は自分の下で指導する予定であった。酒好きの酒豪であるが作中で酒が原因で入院しており、医者からは止められているのにも関わらず飲酒を仄めかす描写がある。
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固有名詞の分類
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