士族の意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 00:24 UTC 版)
以上のように、士族は社会的優位性や特権など制度的な恩典を喪失しつつ、明治中期までは日本である一定の水準などといった社会的な地位の一端を担ってきた。 これら士族に何らか恩恵があるとすれば、わずかに第二次世界大戦前まで履歴書や『紳士録』の類に士族という記載が残り(「○○県士族」)、学校卒業生には卒業証書に、大学で学位を授与された者は学位記に、士族の族称が併記された。そうしたわずかな慣習が幾分か名誉的な意味を持ち、家柄を誇る気分を士族に与えた。 士族の家庭の墓石には「○○県士族 何某之墓」と彫った例も見られる。新潟市の泉性寺にある皇后雅子の曽祖父小和田金吉の父とされる小和田匡利(明治7年(1874年)7月28日没)の墓碑には「新潟県貫族 士族村上住 小和田匡利」と刻まれている。 戦後に内閣総理大臣を務めた岸信介は自伝の中で、生家の佐藤家について「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、ことに曽祖父・信寛の威光がまだ輝いていた。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである」と述べている。佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令と士族の家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという。 また、終戦直前期に内務大臣を務めた安倍源基は『思い出の記』の中に「私は裕福ならずと雖も士族の家に生まれ、寒村なりと雖も故郷をもったことは誠に幸福であった。…安倍家が士族であったことと、故郷をもっていたことは常に私を鞭撻し、心に活を入れて呉れた。…士族は華族と異なり何等政治的特権をもっている訳ではなく、ただ武士の家柄に対して、明治維新後与えられた族称に過ぎなかったが、士族の家柄は一般から尊敬を受けたものである…」と記している。
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