慕容垂の出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)
桓温との大戦以降、前燕と前秦は修好を結ぶようになり、たびたび使者が鄴へ往来するようになった。慕容暐もまた前燕の給事黄門侍郎梁琛・散騎侍郎郝晷を使者として前秦の首都長安へ送ったが、郝晷は前秦の安定ぶりを見て密かに前燕に見切りを付け、その内情を洩らしてしまった。 慕容垂が襄邑から鄴へ帰還すると、桓温撃退の功績によりその威名は大いに轟くようになった。慕容評はもともと彼の事を快く思っていなかったが、ここに至って益々忌避するようになった。慕容垂は「今回募った将士は、みな命がけで功績を建てました。特に将軍孫蓋らは精鋭と戦って強固な敵陣を陥しました。どうか厚い恩賞を賜りますよう」と上奏したが、慕容評はこれを握りつぶした。これ以降も慕容垂は幾度もこの事を要請したので、遂に慕容評と朝廷で言い争うようになった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂を嫌っており、今回の戦功を不当に引き下げた。さらには、慕容評と共に慕容垂誅殺を謀るようになった。 11月、慕容垂は難を避けるために龍城へ移ろうと思い、狩猟を願い出た上で平服で鄴を出奔し、そのまま龍城へ向かった。だが、邯鄲にいる慕容麟が父である慕容垂の脱走を告訴したので、慕容評は慕容暐へこの事を告発し、西平公慕容強に精鋭兵を与えて追撃を命じた。その為、慕容垂は進路を変更して洛陽に入ると、前秦に亡命した。慕容評は范陽王慕容徳・車騎従事中郎高泰らが慕容垂と仲が良かったのでみな免官としたが、やがて高泰を復帰させて尚書郎に任じた。
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