教員時代と沖縄戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 03:28 UTC 版)
1925年(大正14年)沖縄県師範学校を卒業後、国頭郡の尋常高等小学校の訓導に就いた。その後、いくつかの尋常高等小学校の訓導を務めた後、1941年(昭和16年)に安波国民学校の訓導兼校長となる。1943年には、故郷の越来村青年学校の教諭兼校長となり、沖縄戦と終戦を迎えた。沖縄戦で大山は3人の子供、母と兄を亡くした(後述)。 戦後は、生き残った沖縄人の多くと同様に収容所暮らしから始まった。大山とその家族は、田井等収容所に入り、死体の収容作業、食料配給などに従事した。先輩教員の度重なる要請により教職に復職し、1945年12月に胡差市の室川初頭学校の校長となる。1947年、新設された越来実業高等学校の校長に就任する。
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