教育・文化事業
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1925年には、境内に聾唖児の矯正施設「北海道吃音矯正学院」が設立された。この施設は、聾唖児の指導に取り組んでいた市内の小学校教員・近藤兼市を代表とした、札幌では最初の本格的な聾唖教育機関であった。当時の住職(代数では3代目)の牧野仰鍬は、近藤の父と知り合いであったことから、元はおこもり堂(ある期間こもって神仏に祈る参篭場所)であった建物を校舎として無償で提供した。同施設は1927年、市内の盲児教育施設と合併して「私立札幌盲唖学校」となり、1931年に市内南9条西1丁目に新築移転するまで当寺を校舎とした(私立札幌盲唖学校はその後1944年に疎開で河西郡御影村(現上川郡清水町)に移り、1948年の道立移管後1950年に廃校となった)。 3代目住職・牧野仰鍬は、水墨画の愛好者でもあり、大正初期に北海道に移住した滝和亭門下の南画家・谷口香巌の支援者となった。豊川稲荷の書院では、谷口の指導による茶道と水墨画の講習会「煎茶会」が月2回行われ、1930年からは市内の百貨店で「煎茶会」による展覧会が8回にわたって開かれた。谷口の門下からは本間莞彩・川井霊祥・堀井聖峰・菅原無田らを輩出し、本間は後に道内在住者では初の日本美術院院友となった。本間は1946年、川井・堀井・岩橋英遠・高木黄史らと「北海道日本画協会」を設立し、附帯事業として画塾「北海道日本画研究所」を開設した。「北海道日本画研究所」は豊川稲荷本堂に教室が置かれ、講師には「北海道日本画協会」のメンバーの他、郡司正勝(演劇学者)なども名を連ね、1949年まで存続した。
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