王統史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 17:07 UTC 版)
本節では、沖縄本島内で中山・山北(北山)・山南(南山)の3つの小国家に分立した三山時代以前の王統について記述する。 蔡温が編集した『中山世譜』には、琉球開闢の際に現れた男女の子孫から誕生した天帝子(太陽神の子供)の長男が、天孫氏として琉球を統治したと記されている。また羽地朝秀の『中山世鑑』には、天孫氏の末代の王が、臣下に殺害され、当時の浦添按司であった尊敦(そんとん)は家臣を引き連れて、その臣下を討ち取り、その後人民から王へ推挙され、舜天王となったとしている。舜天を初代とする舜天王統は3代までで、最後の義本王は浦添按司の英祖に王権を禅譲したとされる。英祖王統4代目の玉城王は酒に入り浸り、執務を碌にせず、その結果国は乱れ三山に分立し、中山王となる。そして王統最後の西威王は幼君であったため、母后の専横政治により益々乱れ、王の死後に英祖王統は廃され、浦添按司の察度へ政権が渡された。 文献に記されている王統に関して、明との交易を開始した察度王統は確実に存在し、天孫氏と舜天王統は実在しない伝説上の人物であるとされている。しかし、英祖王は実在した可能性が高く、もしも存在していたのならば、琉球全土を統治する王ではなく、一地域の浦添の按司に過ぎなかったと推測される。また『中山世譜』には、天孫氏が王として君臨した際、王都を首里に定めたとしているが、実際は英祖王統以前の居城は浦添グスクで、察度王もしくは三山統一後の第一尚氏が首里城に遷都したと考えられる。 1996年から2004年にかけて、浦添ようどれの発掘調査が行われた。安里進は、この発掘調査により英祖王統は実在したと考えている。第一の理由に『琉球国由来記』に記された浦添ようどれの建造年代と、発掘された瓦に刻まれた年代に一致するという点、第二に建造の際に多数の人員と技巧職人を指揮し、地方を束ねた按司と比較にならない大規模の墓を造営したという点を挙げている。
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