百済の右賢王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:25 UTC 版)
458年、百済の蓋鹵王は、宋に対して重臣11人の任官を要請しているが、そのなかに百済の左賢王・右賢王という王号も帯びている人物がいる。この左賢王・右賢王は血縁的にも百済王にもっとも近い人物であり、左賢王余昆は蓋鹵王の弟である昆支と考えられ、そうであるならば血縁的には蓋鹵王にもっとも近い人物といえる。右賢王余紀もまた左賢王同様、血縁的には蓋鹵王に近い人物であった可能性が高い。鄭東俊は、百済の左賢王・右賢王を華北の遊牧民系王朝で使用されたものが南朝を通して百済に伝えられたと想定している。
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