移籍、度重なる圧力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 23:00 UTC 版)
「アラン・フリード」の記事における「移籍、度重なる圧力」の解説
フリードの活動は、ラジオや新聞を通して全米に知れ渡るようになり、彼はクリーブランドを離れて新天地での活躍を目指すことになった。1954年9月、WJW局との契約が満期に達すると、フリードは最高額の契約金を提示したニューヨークのWINS局に移籍した。 彼の番組『ロックンロール・ショー』は、夜間の比較的早い時間帯に放送された。WINS局は数ヶ月のうちに聴取率全米ナンバー1のAM局になった。 1955年には、ニューヨーク・ブルックリンのパラマウント・シアター(英語版)でロック・コンサートを開催。フリード自身が司会を務めた。このコンサートの模様はCBS系列のラジオ局を通じて全米に放送され、ロックンロールとフリードの人気は絶頂を極めた。この時期には『ロック・アラウンド・ザ・クロック』(Rock Around the Clock , 1956年)、『ロック、ロック、ロック!』(Rock, Rock, Rock!, 1956年)、『ドント・ノック・ザ・ロック』(Don't Knock the Rock, 1957年)等のロックンロールを用いた音楽映画にDJ役で出演している。 黒人発祥の「ロックンロール」を世に広めていくフリードを「ニガー・ラヴァー」呼ばわりし、非難を浴びせる人々は少なくなかった。その中心は、政界・教育界・宗教界に代表される白人の保守層や、南部の白人至上主義者たちであった。フリードが若者の注目を集めるにしたがって、彼らは次第に大きな圧力をかけていった。 1957年、フリードは全国ネットのテレビ局ABCに招かれ、ロックンロールを中心にすえたテレビ番組『アラン・フリード・ショー』を開始したが、黒人歌手のフランキー・ライモンが白人の少女と一緒にダンスをするシーンに対して南部の系列団体が激しく抗議し、数週間のうちに番組は放送中止に追い込まれてしまった。 全米各地でフリードが開催していたロックンロール・コンサートでも、地方当局の監視はいっそう厳しくなっていった。1958年5月、マサチューセッツ州ボストンで行われたコンサートで、過剰警備を敷く警官隊と観客との間で暴動が発生すると、地方当局は暴動を扇動した容疑でフリードを告訴した。後にこの訴えは退けられたものの、WINS局は一連の事件の影響を考慮してフリードとの契約更新を見送った。WINSに見限られたフリードは、同じくニューヨークに拠点を構えるラジオ局・WABCに移った。
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