きい‐はんとう〔‐ハンタウ〕【紀伊半島】
紀伊半島
紀伊半島
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紀伊半島(きいはんとう、英: Kii Peninsula[1])は、本州中央部から南側の太平洋に突き出る、日本最大の半島である[2]。名称は、「木が多く自然豊か」の「木」が、紀伊半島の紀になまったとされる[要出典]。
注釈
- ^ 紀勢本線の多気駅~御坊駅間(283.8km)はJRやその他の鉄道事業者の鉄道路線に接続する乗換駅が存在しない。これは日本においては最長である。
- ^ 2012年3月現在、西側(和歌山県)では南紀田辺インターチェンジ(田辺市)、東側では紀伊長島インターチェンジ(紀北町)以北が完成し、大阪や名古屋とつながっている。
出典
- ^ 外国人にわかりやすい地図表現検討会 (2016年1月6日公表) (PDF). 地名の英語表記及び外国人にわかりやすい地図記号について. 国土地理院. p. 13
- ^ “天皇陛下のお言葉全文 和歌山で開催の国文祭・芸文祭”. 産経ニュース (2021年10月30日). 2021年10月30日閲覧。
- ^ “平年値ダウンロード”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
- ^ “観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
- ^ 諏訪兼位・宮川邦彦・水谷総助・林田守生・大岩義治(1997)"紀伊半島中部,中央構造線の大露頭:月出露頭(三重県飯南郡飯高町月出ワサビ谷)"地質学雑誌(日本地質学会).103(11):XXXV-XXXVI.
- ^ 田中喜久雄. “伊勢湾台風で一部露出―月出の中央構造線露頭地”. 歴史の情報蔵. 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班. 2016年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月18日閲覧。
- ^ “月出の中央構造線”. みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財 / 情報データベース. 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護課. 2016年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月18日閲覧。
- ^ “南紀熊野ジオパーク 南紀熊野ジオパークを学ぶ 温泉”. 南紀熊野ジオパーク. 2023年2月14日閲覧。
- ^ 『日本のエアポート04 東海3空港』2011年11月、イカロス出版、pp.146-147
紀伊半島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 07:01 UTC 版)
津波襲来前には各地で大砲を撃つ様な音が聞こえ、紀伊田辺では「又坤に当て黒雲の中より火の玉飛出、海中に入事七八ツ、夫れより海鉄砲の音トーン/\と鳴渡り」(『干鰯屋善助翁手記』)という記録もある。また田辺の新庄では「海鉄砲三ツ鳴り、峯に登り少し過し候得ば津浪にて大土手崩れ白波立チ来り申候」(『塩崎幸夫家文書』)という記録もある。 同文書には前日の東海地震では「震(中)五ツ時分、半時余り」とあり浪が入ったことが記され、五日の南海地震は「震(大)七ツ時分よりゆり出し井戸の水も飛出申候」とあり、さらに津波は第3波が最大であったことが記されている。 津浪之事 一番潮ニ峯之家流れ、其外小家ハ下拙家より外下へ皆流申候 二番潮ニて大分家流れ申候 三番潮高サ三丈余、此時下拙之家倉其外納屋一度ニ流れ申候、峯之倉も此時流れ申候、其外五反田迄流れ申候 四番ヨリ大潮も段々少しニ成申候、下拙ハほそ入山畑ヨリ見候故然とハ存不申候 廿度程寄候 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 広村堤防付近の空中写真。 濱口梧陵。 遡上高8mの津波が襲来した紀伊広村において濱口梧陵(濱口儀兵衛, 物語では濱口五兵衛)が稲藁に火を着けて津波の襲来を村人に知らせて避難を誘導した逸話は小泉八雲による稲むらの火の物語となり、今村明恒の提言により尋常小学校5学年の国定教科書にも採用された。 ただし、物語では「今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかった。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、・・・」となっているが、実際の広村の揺れは『濱口梧陵手記』に「其激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を蓋ふ」とある程烈しいものであった。また物語の五兵衛は「これは、たゞ事ではない。」、「大変だ。津波がやつて来るに違ひない。」と村人らに津波の襲来を知らせた設定になっているが、実際には前日の東海地震とそれに伴う津波を経験しており、南海地震の強い揺れで誰もが大津波を予測していた。地震動については本作品が執筆された直前に発生した明治三陸津波から小泉八雲が何らかの示唆を得た可能性もあり、このように物語と事実の相違点が幾つか見受けられるものの、物語の文学的価値は事実とは左程関係は無くむしろ事実を歪めたがゆえにその価値を高めた節があると今村明恒は評価しており、津波の教訓を子供に教えるものとして高く評価されるべきものである。 さらに実在の儀兵衛(梧陵)は物語以上に嵩高・英雄的・献身的であり、醤油で財を成した彼は、その私財銀94貫344匁を投じて延長652.3mの堤建設の造営費とした。 和歌山も非常に激しい揺れに見舞われたが、津波による被害は震害に比して軽く、大工棟梁の水島平次郎が記した「水島見聞雑記」によれば、「若山は、地震は強けれ共津波は軽く、然共伝法橋之下江舟五十杯程、右津波押寄来り、いやが上に重り、誠に蕎麦の鉢を積重ねたるが如く、北島川原江数十町も脇に掛り有之候、四百石位の舟砂上に押上られ有之」という。
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