道頓の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/02 13:52 UTC 版)
応仁の乱が発生すると甥である政弘は西軍方として上洛することとなり、道頓はその留守を守る事になった。 しかし、文明2年(1470年)2月に東軍方の8代将軍足利義政は、大内道頓(教幸)を大内氏の当主と認め、大内政弘を凶徒として討つように命じる御内書を大内氏の関係者や隣国の大友親繁に発した。また、法体であった道頓に代わって嫡男の嘉々丸が守護職に補任される。これを受けた道頓は、内藤武盛・仁保盛安・吉見信頼・周布和兼らとともに挙兵。道頓とともに留守を守っていた周防留守居役の陶弘護も御内書を掲げた道頓に屈服し、2月9日には道頓は在国の重臣たちから忠誠を誓う旨の起請文を受け取った。 しかし、陶弘護は時間を稼ぎつつ叛旗を翻す機会を狙っていたとされ、弘護は12月に挙兵すると道頓方を周防玖珂郡で打ち破った。敗れた道頓は安芸国で仁保盛安と合流して石見国に転戦、さらに長門国阿武郡の賀年城を拠点に反攻しようとしたが、翌3年(1471年)12月に再び敗れて豊前国に落ち延びた(大内道頓の乱)。
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