<大正から昭和へ>第8回 日米・日中・日露の難所
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アメリカの大震災支援
関東大震災で東京と横浜の電話がすべて不通となった1923(大正12)年9月1日夜、神奈川県警察部長は、横浜港に停泊中の東洋汽船「コレア丸」の無線電信機を使って被災状況を各方面に伝えました。
これを傍受した福島県磐城無線局長がサンフランシスコ、ホノルル、北京、平壌に打電し、大震災を知った各国から、救援・救済の手が続々、差し伸べられます。その中で最も迅速かつ大規模な支援に動いたのはアメリカでした。(波多野勝・飯森明子著『関東大震災と日米外交』)

クーリッジ米大統領(1872~1933年)は三つの指示を出しました。
第1は、中国黄海に展開していた米海軍のアジア艦隊司令官に対し、横浜方面へ直ちに回航するよう命じました。第2は、太平洋航路をもつ船会社の汽船は、向こう1か月間、乗客と積み荷の予約を取り消し、待機するよう指示しました。これは救援物資の輸送を可能にするためです。第3は、アメリカ赤十字社に対し、救助活動に出発するとともに、

9月5日、アメリカの駆逐艦7隻が横浜に入港します。米陸軍フィリピン駐屯軍司令官は同日、輸送船に野戦病院一式、ベッド、医薬品、食糧を積み込み、医師18人、看護婦60人の支援部隊を乗せて、自らも横浜に向かいました。
米軍は、横浜に救護所を設置して診療にあたり、横浜-清水間の避難民輸送や被災地の照明、無線通信網の確保などに従事しました。
これらとは別に、米西海岸から救援物資を載せた米艦船・商船が日本にやってきます。一方、アメリカで集められた義捐金は、目標額の800万ドルを超え、11月末までに総額約1060万ドルに達しました。(前掲『関東大震災と日米外交』)
クーリッジは1か月前、ハーディング大統領の死去に伴い、副大統領から昇格したばかり。震災支援は、自らのリーダーシップを誇示する格好の機会でした。また、米国民の手厚い支援の背景の一つには、1906年のサンフランシスコ大地震で、日本が即座に義捐金を送り、大変感謝されたこともありました。
排日移民法が成立
そのサンフランシスコ地震では、日本にとって実に苦々しい事件がありました。サンフランシスコ市が地震で教室不足になったことを口実に、日本人学童を隔離したのです。連邦政府が介入し、これは撤回されましたが、その後もカリフォルニア州では、日本人移民を排斥する動きがやみませんでした。
1908年、日本人移民の渡航を規制する日米の紳士協定ができました。しかし、協定には、日本は移民を送らないものの、アメリカにいる日本人の妻子と両親だけは例外と書いてありました。そこで生まれたのが「写真結婚」です。