那覇市の戦後の密集市街地と真和志市
琉球新報に「牧志、松尾、壺屋… 戦後の密集市街地を「再生」へ」という記事が掲載されていました。
記事の元になった資料の地図を見れば、密集市街地が旧真和志市に偏っていることがわかります。今回の記事は偏っている理由について。
みなと村も真和志だった
そもそも旧那覇市と旧真和志の境はどこだったのでしょうか? 実は戦前、戦後にかけて真和志村からいくつかの区域が那覇市に編入されていますので、時期によって異なります。
戦後大きな移動は那覇市と真和志村の一部が分離して誕生したみなと村の成立、みなと村の那覇市への編入です。
元々真和志村であった地域が真和志市に戻ってこなかったため、これがしこりとなって那覇市と真和志市の合併が遅れたのは有名は話です。
みなと村の範囲は那覇市の楚辺原の一部、美武田原、長作原の一部、阿手川原、赤畑原、那覇市通堂町の一部、上泉町、真和志村の字二中前一区、松尾、県庁前でした。
- グダグダ(β) みなと村
- グダグダ(β) みなと村の範囲(原名)
- 「みなと村」初めて地図に/那覇市議会史 – 琉球新報
- 特殊行政区域みなと村のあゆみ〈資料編〉―1947.5~1950.7 (1982年): 盛根 良一
真和志と那覇の境
真和志市になってからは合併まで変動はありませんので、真和志市になってからの境を見てみましょう。
下記は真和志市誌の地図。この頃は既にみなと村が那覇市に編入された後ですが、二中前や松尾、現在のおもろまち地域も真和志市でした。
地図の中央を上下に走る道路がひめゆり通り(330号線)、中央の空白(那覇市)の部分は壺屋と牧志です。
真和志市誌 眞和志市役所 1956年2月20日発行
1930年ごろの那覇市
戦前の那覇は久茂地川よりも海側に市街地がありました。まだ若狭や壺川が埋め立てられていません。
ファイル:Naha map circa 1930.PNG – Wikipedia(新光社「日本地理風俗大系 第12巻」より)
真和志に集中した理由
戦後、那覇の大半は接収され、壺屋地域の先遣隊から那覇市の復興が始まったのは有名な話です。
壺屋や牧志以外の旧那覇市がまだ占領下にあった頃、真和志村や小禄村への移動が許可されました。また、那覇市に戻れない人のために(地主の意向を無視して)真和志に代替地が割り当てられました。
那覇に集中するはずだった人々が真和志市に住まなくてはならなくなり、結果として真和志市に多くの住宅密集地が生まれました。
特に、代替地として割り当てられた地域は狭い敷地の家や細い路地が多くなっています。
真和志に人口密集地域ができた後、旧那覇市のアメリカ軍占領地域は徐々に解放され※、市街地として整備されたため、旧那覇市には意外に住宅密集地が少なくなっています。
このことは後々の那覇の商業地域の発展に寄与したように思われます。
(旧真和志地域の住民としては複雑な気分になる話だったりする。モノレールも小禄・旧那覇・首里を主に通るし、県立図書館も移転するようだし、真和志は不便になるなあ……)
後から解放された市街地ほど道幅や区画が広く整備されています。道幅をみただけでおおよその解放時期がわかったりします。
1945.11.15 牧志設営隊136人入域(注2)。
11.20 産業復興の名目で陶器製造産業先遣隊 (103名)が壷屋一帯に入域、壷屋区役所設置、都市再建開始。
この頃、那覇で移住・生活できる地域は牧志町・壷屋町の 2町と真和志村の桶川・与儀(畑、低地)などのみ。
旧市内の牧志町・壷屋町の 2町を除く 22町(市政施行時24町)に帰住できない那覇市民はこの狭い地域に居住。
12. 首里市への移動許可となるが、人が住めるのは鳥堀 2丁目周辺のみといわれる(翌年から居住はじまる)。
1946. 2. 小禄村の津真田・高良地域の一部解放(小禄村民受け入れ地として指定)
7.10 真和志村への移動許可。 /8.6小禄への移動許可。
密集地の多くは真和志に存在
「那覇市密集住宅市街地再生方針」資料の図に真和志市と那覇市の境を書いてみました。右上部分の密集地が首里、左下の国場川を渡った地域は小禄です。
住宅密集地の多くが真和志に集中していることがわかります。
「那覇市密集住宅市街地再生方針」策定について | 那覇市 Naha City「密集住宅市街地の区域」を元に作図
割当地の現状
勝良又原付近(寄宮中学校向かいから寄宮国映通り付近)を歩いてみました。この辺りは人がすれ違うのがやっとの路地が入り組んでいて、一見行き止まりのようでちゃんと先に抜けられたり、やっぱり行き止まりだったり。子供のころは迷路のように感じていました。
密集地でないところは?
現在の那覇市で区画整理されているのは、戦後しばらくしてから占領解放された場所や、埋立地、公有地だったところが主です。
また、昔からの農村地域の集落があり、那覇中心地から遠い場所もそれほど密集していません(国場、仲井真、上間など)。
旧真和志市では、現在の栄町(元は米軍占領地・戦前の沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校)※1、与儀公園付近(元は農業試験場用地)※2、与儀タンク跡地(米軍占領地)※3、おもろまち(米軍占領地)、壺川〜古波蔵の漫湖側(埋立地)、安謝(埋立地)はきちんと区画整理されています。
実は長田原(上間小学校近辺)も区画整理されているのですが、この地域が住宅密集地にならずに畑のままだった理由は謎です。仲井真小中学校近辺と同じく、不便な場所だったから放置されていたのでしょうか……※4
撮影日時:不明 / 所有者:那覇市歴史博物館
那覇市歴史資料室収集写真/戦後/同写真1枚あり(02006909)/市民生活に驚異を与え、都市発展の大きな障害になっているとして、根強く開放要求をしていた市内軍用地の内、与儀のガソリンタンク地域(6.900坪)だけが本土復帰と同時に開放されることになった
配信元:那覇まちのたね通信
事業主体:NPO法人ちゅらしまフォトミュージアム・地域情報エージェント株式会社
まち歩きの参考に
那覇は米軍占領からの解放時期や都市化の進展時期によって地域ごとに様相が異なっています。
道幅が狭さ(広さ)、 木造住宅の比率、ブロック住宅も時代によって流行がありますので、風景をみながら街に人が住み始めた時期を想像してみるのも楽しいと思います。
戦後70年以上が経過し、神里原や桜坂のように旧市街地が再開発されてしまう時期も近いと思われます。まち歩きするなら今のうちかもしれません。
今回の記事を書くにあたり “グダグダ(β)”の記事を多数参考にしています。感謝。
ディスカッション
コメント一覧
こんにちは。読ませていただきました。
旧那覇市と真和志市の境界がどうだったか気になっていて、興味深いです。現在はおおむねひめゆり通りから西側を那覇地区、東側を真和志地区というふうに分けられることが多いですが、新都心などは真和志市だったので、現在の地区分けと必ずしも一致しないようですね。
壺川、二中前、楚辺、樋川、松尾も真和志市だったのですね。でも那覇市歴史博物館のサイト(http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/92894)に載っていた1957年の地図ではこれらは那覇市に入っていました。
壺屋は昔から那覇だったそうですね。壺屋はやちむんの町だったので、那覇に属していたというのはなんとなくわかります。
おはようございます、すぐるさん。記事を読んでいただきありがとうございます。
壺川、二中前、楚辺、樋川、松尾は、みなと村に編入されました。この範囲は1950年に那覇市に編入され、真和志には戻ってきませんでした。
そのため、1957年の地図では那覇市になっています。みなと村の変遷・地域については下記の記事が参考になります。