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いま

いま 感じていることを書いていきます

「自分の気持から目を背けない」

今朝、「ストア派哲学入門」の12月8日を開くと、「自分の気持から目を背けない」とありました。これは、今の私にぴったりの言葉です。

 

前回のグループで、自分の気持ちを無視してパターンで言動したことに、先生の話で気がつきました。「私」が苦しい気持ちを察知していたら、もっと違う言動をしていたと思います。「私」が働いていないし、意識が自分の中ではなくて、外側(他人)にいっていたんです。自分の気持から目を背けて、パターンで他人優先をしていました。

 

そして、今日は茅ケ崎グループの勉強会でした。これまで自分が認めようとしなかったパターン(グループで言えなかった)や、ここ一カ月間の自分の気持ちをみんなに話しました。まだまだ自然に話すとまではいかないけれど、話すことで自分の中が整う感じです。そして、いちばん話したいグループのみんなに話せてよかったって思いました。

みなさん、ありがとうございました。

「私」がいるから大丈夫

パターンて、自分の思い込みに執着していると感じます。決めつけたことは絶対でそれにしがみついているんだなって思います。自分の欲しいものが無くなったら、この先自分はどうやって生きていったらいいのか分からないし、不安なんです。

 

そして、それは、物でも、人でも、人間関係でも、いろんなことに、自分の気がつかないうちに執着していて、手放すのが辛くなります。でも、手放すのが辛いと言っているのはパターンです。

 

そのパターンには、「私」がついています。「私」がパターンに語りかけをしてパターンを安心させてあげる。それから、「私」がどうするのか決めたことをやっていけばいい。だから大丈夫。

 

パターンの執着があっても大丈夫。パターンの思い込みがどんなに強くても大丈夫。

「私」がいるから大丈夫。

ひとり、ひとり、違う世界を持っている

自分が育ってきた家族を考えると、会話が少なかったけど、それぞれが何かしら感じたり、思いを抱えてたんだと思います。私もです。

 

なんかモヤモヤする、おもしろくない、いらいらした気持ち、ぎすぎすした雰囲気の奥には、本人もはっきりとは気がつかないような寂しさや、悲しさや、諦めのようなものがあったんだと思います。自分の気持ちを言葉にできたら、「自分でもわからないんだけど、なんかモヤモヤしてる」とでも言えたらよかったんでしょうけど、表現することへの抵抗感や、どう伝えたらいいのか分からなかったんだと思います。見て育ったり、体験してないから。普段の日常会話をたくさんしていたらそれだけでも違っていたと思います。

 

そして、私は家族だったら仲良くするべきだという思いが強かったと感じるし、みんなはそれほど強くなかったのかもしれないです。みんなの仲がよかったら、自分の身も守れるし、心も落ち着いて安心して居られるからです。でも、中学生の頃自分がいくら働きかけても無理そうだと気がつきました。

 

家族だったら・・・って曲者です。ひとりひとりが違う自分だけの世界を持っているのに、家族はみんな一緒の同じ世界(パイプ)だと信じてしまうと、揉めるし、悩むし、思い通りにしようと働きかけます。

 

別に仲が良くなくてもいい、良くてもいい、喧嘩してもいい。

ひとり、ひとり、違う世界を持っている。

家族で学んだことのひとつです。

 

 

人って変わるんだなぁ 

検査入院していた兄のお見舞いに姉と行ってきました。受付で、どういう関係かを聞かれて、名前を書いて、手首で熱を計って、首から札を下げてやっと病室へ行けました。コロナ以降からこんなに大変になったのかな?制限時間がないだけいいのかなと思いました。

 

病室を出て、談話室のような部屋で久しぶりに三人でゆっくり話すことができました。持病はあるものの検査もほぼ無事に終えたと話す兄はホッとして明るく感じました。私も何かあったらその時に考えようと決めてはいたけど、やっぱりほっとしました。

 

三人でこんな風に話せるようになったのは、15年ほど前の母の介護がきっかけでした。協力しないとできないし、今日はどんな状態か次の人に伝えないとならないし、みんなが年を取って丸くなったのもあると思います。

 

昔はばらばらで会話もなかったのに、人って変わるんだなぁって思います。あきらめていた子供の頃の自分に教えてあげたら、何ていうかな?よかったってホッとすると思う。

シャキッと

ある方が「赤木さんはお元気ですね。いつもシャキッとしていますよね」とおしゃったので「そんなことないですよ。この間も電信柱にぶつかってしまって」という話をしました。

 

その時、シャキッと、という言葉に引っかかっているのを感じました。シャキッとしているって、緊張感や、張詰めた感じとか、背筋をピンと伸ばしてという感じです。緩さや、リラックス感がなく、ちょっと無理した不自然な感じがしたんです。シャキッと見えるのは、自分は人より上だとか、特別感や、崇高感を出したいパターンのあらわれなのかな?と思ったんです。

 

そして、そういうパターンがあることが嫌だ、恥ずかしいという思いがあることも感じました。でも、実際あるんです。

 

「自分は誰よりも上だ」というパターンは、今まで自分を守るために必死で働いてきてくれて、それでいいの?このままいくの?と気づかせてくれたパターン。そして、黒パターンを嫌うパターンも同じ。自分を守るにはこれしかないと思い込んでいるし、怖がっているのを感じます。

 

シャキッとという言葉で、どのパターンも大事にしていこうと改めて思いました。

痛かった!

先週、電信柱にぶつかってしまいました。

 

たまに歩く近所の歩道は、歩道の真ん中にコンクリートの電信柱が何本かたっているんです。その道をよそ見をしながらずんずん歩いていたら電柱にゴッツンしました。何でここにあるんだろう?って一瞬わからなかったです。あまりの痛さと血も流れてきたので外出するのをやめて家に戻ろうと歩いていたら、小学生の女の子が心配そうに「だいじょうぶですか?」と声をかけてくれました。「う~・・だいじょうぶ、ありがとう」と大丈夫じゃない声で答えて帰りました。

 

すぐに冷やしたからあまり腫れなくてすんだし、小さい傷も治ってきました。何人かに「どうしたの?」と聞かれたから、「電信柱にぶつかって・・」と話してもまず不思議そうな顔をします。そうですよね、何で?って思いますよね。

 

ぶつかってから、あの道はまだ通っていません。自分で自分を傷つけちゃったなぁ。自分にごめんなさいって言いました。気をつけて前を向いて歩きます。

自分を認めていこう

だいぶ昔の話になりますが、中学の卒業アルバムのためにクラスのみんなで色紙に寄せ書きをしました。

 

その色紙に私は「楽しく生きよう」と書きました。書き終わってから自分で書いたのに(そうなんだ・・・楽しく生きたいんだ)と自分を感じました。家のことなどを重たく感じていたこともあったけど、これからの自分に明るさも感じていたんだと思います。

 

楽しく生きたいと思っていたんだなあと、たまーにあの頃の自分を思い出します。自分は楽しく生きているだろうか?はいって即答できない今の自分。どうしてなんだろう。

 

今の自分で生きるしかないのに、そのありのままの自分を認めていなかったり、黒パターンを選んでいると、道を逸れてしまうんだなって思う。

 

あの頃の自分に大丈夫だよと言ってあげられるように、今のそのままの自分を認めていこう。