いつも漫画「サチコと神ねこ様」を掲載しているPouchから、シンエヴァの記事を依頼されて、これを書いている。
だが私は普段は漫画描きであるので、長い文章を書いて自分の考えをまとめることには慣れていないので大変稚拙で読みにくい記事となっているかもしれないが、愛情だけは詰め込んだので許してほしい。
エヴァンゲリオンが完結した。
1995年10月からテレビアニメでの放送がスタート。2021年3月に新劇場版4作品目にして、この物語は終結となった。
1995年、当時私は中学1年生であった。奇しくも主人公である碇シンジくんとほぼ同世代、まさに、と強調させていただいても問題ではないであろう「リアルタイム世代」である。
【新世紀エヴァンゲリオン放送開始】
千葉県九十九里浜沿いの、最寄駅もない小さな田舎の町で年寄りと暮らす農家の長女に生まれた私はあの頃、お姉ちゃんが欲しかった。
じき出来上がるだろう夕飯の匂いを嗅ぎながら、まだ小学生だった弟とテレビの前に座っていたら始まった新しい夕方のアニメ。それが『新世紀エヴァンゲリオン』だった
第1話から度肝を抜かれたシーンを今もはっきりと思い出せる。
弱気な主人公を外車で迎えに来たおねえさん・ミサト(今思えば本当にこの時のミサトは痛い。未成熟な精神が隠せないイキッた29歳の女すぎて痛い。自戒も込める)に、博士とアナウンスされて出て来る、水着に白衣(!)を着た気のおけなさそうな同僚のおねえさんのリツコ。
エヴァに感じた当時の「新しさ」はたくさんあるのだが、私は「ここ」がそうだった。
当時よくこんな妄想していた。
ミサトが自分のお姉ちゃんで、そのお姉ちゃんを車で迎えにくるリツコ(彼女もまた理想の姉の友人像)、学校から帰るともう2人は出かけた後で、家の門の所に落ちてる吸殻を見つけた私は「あ~リツコさん来てたんだ~」と思う、たったそれだけ。かっこいい大人の女性2人が身近にいる自分、というものを思い描いていた。
田舎に生まれた長女の味方は創作物の中にしかいない。
あの時モヤモヤ燻らせていた不満を今の自分が言語化してあげたらこうなるだろう。
お姉ちゃんが欲しかった。とにかく自分には年上の女性が必要だと思っていた。
私にとってエヴァンゲリオンとの出会いは葛城ミサトとの出会いだったわけである。
【劇場版の頃】
その後劇場版2作(俗に言う春エヴァ夏エヴァ)と続いたエヴァンゲリオンは、庵野秀明という男そのままの巨大なハンマーを容赦なく振り下ろされるような作品であった。
それでもその中で赤裸々に綴られる彼女たちの生活態度、内面、悲劇、過去、どれを見せられても私の彼女たちへの憧れは揺るがなかった。
そして自分自身も高校、大学、社会人と歳やポジションが変化していく中で、ときおりテレビ版から見返すたびに理解の解像度がどんどん上がっていくのだ。
人間関係でつまづけばリツコの「ヤマアラシのジレンマ」を思い出した。自分から手元に置いた人間を持て余す時は、ミサトとシンジの全てを牛のように反芻し悩んでもみた。
それが問題を解決した試しは無いのだが、幼稚ながらも自身の内面をほどよく耕すことには成功しているのではないかと思う。
しばらくしてまた発表された新劇場版シリーズ「序」「破」。
テレビ版をなぞる展開と新しいキャラクターに再び興奮させられながら、私は14歳の自分を隣に座らせ楽しんだ。
過去の自分は、相変わらずミサトとリツコへ憧れの瞳を輝かせる。
今やミサトがあおる日本酒の銘柄の美味さを知っている私も変わらなかった。
【破とQの頃】
だが29歳を通り過ぎ、三十路を迎えたときはさすがにそんな余裕は持ち得なかった。
「とうとうミサトの歳を追い越してしまった」
という猛烈な喪失感が私を襲う。
「今出会っていたら飲み友達になりたいと思ったのだろうか、それとも『こんなやべー女無理』と冷静に批判したんだろうか」
などとウーロンハイを片手に思ったものだ。
そして破からQの間に私は結婚し、母となる。
好きなアニメや映画を見返すような時間もままならない中、息子を胸に抱きながらふとテレビ版で流れた
「結局、シンジくんの母親にはなれなかったわね」というミサトのセリフを思い出した。
「あいつはどうしてシンジの母親になりたかったのか、というか、なぜそんな勘違いをしていたんだろうか?母親を知らないから、シンジの保護者として振る舞うことで“母”を知りたかったんだろうか。やっぱイテェ女なのかミサト……」
と、またベクトルの違う解釈と疑問が自分の中に生まれたのを感じて少々驚きもした。
長くひとつの作品を好きでい続けると、こういうことはよく起きるものなのだ。
【シン・エヴァンゲリオン公開】
そして現在、無事エヴァンゲリオンは完結し、私はそれを劇場で見届けた。
私は23日で38歳になり、13歳で出会ってからの3分の2を共にしたこととなる。エヴァは人生という人がいるがまさにそうであり、私にとっては難解で過激な道徳の教科書でもあった作品が終わった。
ミサトは劇中で母親になっていた。いや、なれていた。
「Q」で再び私の歳を追い越してくれたミサトであったが、とうとう『私の理想のお姉ちゃん』は、最後に『理想のママ友』にまでなってくれたのであった。信じられない。
そう、とても信じられない程に完璧な彼女の最期だった。
ミサトはきっと死に場所を間違えない女だと「まごころ」を観たから確信はしていたけど、最高にかっこいい死に方をしやがった。
相変わらずちょっとダサい真っ赤な制服と、シンジの願った通りの自分に戻り、2人の「息子」が一緒に映った写真を大事そうにして終息に溶けていった。
最後の最後で葛城ミサトはとうとう私の理想の『女』となったのである。
【終わりに】
25年間、私はミサトのことが大好きだった。
14歳の男の子にすることじゃない痛々しい振る舞いと、自分にだけ都合の良い大人の振る舞い、性のひけらかしと利用、小賢しさ、狡さ、未熟さ、幼児性、甘え、弱さ、強さ、絶対的覚悟と責任感、始末……。
そんな彼女を好きだと抱きしめることは、自分を抱きしめることでもあった。
こんな推しにはもう出会えないかもしれないとさえ思う。
25年間本当に楽しかった。ありがとうエヴァンゲリオン、さようなら葛城ミサト。
そしてすべてのチルドレン(エヴァファン)におめでとう。
長くなってしまったが、これが私のシンエヴァ感想である。拙い文章力で、もうこれを打つ精神すら限界であるが、最後にもう一つだけ書かせてもらい終わりにしようと思う。
13歳の頃からミサトに言いたかったことだ。
カジだけはやめとけ。
執筆:wako
Illustration:wako
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