Tairaの臨床モデル学 / Taira's Gender Studiesで、モデルの視点から社会を多角的に考察してきたTairaによる新連載「TAIRAのノンバイナリーな世界」では、日頃から何気なく成り立っている身の回りの「組み分け」にスポットライトを当てる。
曖昧なことやラベルを持たないことに不安を抱きがちで、なにかと白黒つけたがる私たち(と世間)だけど、こんなにも多彩な個性や価値観が共生する世界を、ゼロか100かで測れるのか。日常に潜む多くの「組み分け」を仕分けるものさしを改めて観察し直してみると、新しい世界や価値観に気づけるかもしれない。
モデルでライターのTairaが物事の二項対立的(バイナリー)な見方を取り払い、さまざまなトピックを「ノンバイナリー」に捉え直していく。
vol.7 ソーシャルメディアでの出会い/リアルな出会い
Q1. “ソーシャルメディアでの出会い”って何だろう?
「ソーシャルメディアでの出会い」というと、正直どこからが挙げられるのか難しい……。というのも、近頃自分がオフラインの世界で新しい方と顔を合わせるとき、相手のソーシャルメディア上での存在を全く認知していない状態で「はじめまして」をする機会は、減っているようにも感じるからだ。
ファッション業界では、特にInstagramが名刺/ポートフォリオのような役割を果たしていて、人と人を結びつけるハブとして広く活用されている。モデルに関して言えば、キャスティングチームがクライアントに提示する候補リストや、事務所に掲載される私たちのプロフィールには、ソーシャルメディアのアカウント情報がフォロワー数とともに添えられ、共有されていることがほとんど。その流れは自身がモデルを始める前から存在していただろうけれど、昨今ソーシャルメディアの影響力が一層際立っていることもあって、業界のそうした需要はより顕著に肌で感じる部分だ。
また、モデルの仕事ではプロジェクトごとに異なるクリエイターたちと場をともにする。現場で初対面を迎える機会も多いけれど、予めソーシャルメディアを通して相手を認知しているケースも多々。基本的には撮影ごとに、当日の流れやスタッフリストがまとめられたコールシートが共有され、そこには撮影に参加するクリエイターたちのソーシャルメディアやポートフォリオが添付されていたりする。だから現場では“初対面”なんだけれど、既にオンライン上ではお互いを認知している状態になるので、それぞれのアイデンティティが交錯してしまう場合もある。
余談だけれど、ソーシャルメディアで公開されている自分のオンライン上のアイデンティティは、実際よりも尖った人物をイメージさせることが多いよう。現場で初対面の方から「印象とギャップがある!」と驚かれることもしばしば。そうやって、相手の存在をソーシャルメディアを介して一方的にでも認知している状態で、「はじめまして」をする場合、すでに相手のイメージを持った状態で出会うことになることになる。それは果たして「リアルな出会い」と言えるのだろうか──。
Q2. “リアルな出会い”って何だろう?
もしオフライン上の偶然のめぐり合わせを「リアルな出会い」とするならば、学生時代に比べて今ではそうした機会がぐっと減ったように感じる。私の場合は、自身が会社のようなコミュニティに所属していないことにも起因するかもしれない。学生時代はキャンパスにいるだけで出会いがあることが普通だった。例えば、学校や大学で隣の席になったり、たまたま同じクラスだったり、事前情報がないまま関係が生まれ、そこから友情が育まれることも珍しくなかった。
一方で、ソーシャルメディアに重きを置く仕事を生業としている現在は、リアルな出会いというと基本的には友人からの紹介くらい。それ以外では、いわゆるマッチングアプリなどを通じた出会いもあるだろうけれど、それもやはりオンラインスペースをきっかけとしているし、偶然性よりもアルゴリズムに導かれる出会いは、前述の定義を前提とした「リアルな出会い」にはしっくりこない。
以前、仕事でニューヨークに滞在していたとき、道を歩いていると突然見知らぬ人から声をかけられることがあった。「Hey! How’s it going?(こんにちは! 調子はどう?)」みたいな挨拶から始まって、軽い自己紹介をされた後「ここに住んでるの?」「今度よければコーヒーでもどう?」と連絡先を聞いてきたりするわけだけど、日本で一般的に想像するナンパとは違い、よりフレンドリーでオープンな雰囲気だった。自分が生活の拠点としてきた日本やイギリスでは、そうやって全く知らない人が、日中に突然フレンドリーに自己紹介をしてきて、カジュアルにデートに誘ってくるような経験があまりなかった。だから「なんだこの怪しい人は……」と最初はすごく身構えてしまったのだけれど、ニューヨークではそれが割とあることだそう。出会い方にも土地ならではの文化があって、今思えばこの出来事も「リアルな出会い」のひとつだったかもしれない。
また、例えば電車に乗っているときなどに、ふと「素敵だな」と感じる人が近くに座っていて、場合によっては互いに意識し合っているような感覚になることがあると思う。けれど現代では声を掛けると「変な人」に捉えられかねないから、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした経験がある人もいるかもしれない。そういった場面で声をかけることが普通の世界線だったら、リアルな出会いがもっとあったのかもしれないと考える。
Q3. その2つはどうやって仕分けられてるの?
子どもの頃、まだスマートフォンが存在しなかった時代を知る身としては、「リアルな出会い」と聞くと、どうしても現実での偶然な出会いを思い浮かべてしまう。でも、ソーシャルメディアがこれほど浸透した今、「リアルな出会い」に対する社会の認識自体が変わりつつあるのかもしれない。
また、ソーシャルメディアでの出会いが増えた今、オンライン上にはリアルな自分を反映しているはずなのに、実際にはソーシャルメディアで構築された“自分”に、現実が引っ張られているのではと考えさせられる。現実世界の自分に基づいて近況をアップしているけれど、スクリーンという制限されたスペースに、ありのままを反映することは難しい。だから、ソーシャルメディアで共有される自分の化身は意識的または無意識的に、対外的に見せたい自分の姿に編集されてしまうことがほとんどだろう。
そんなオンライン上の自分をきっかけとした出会いがあったとして、実際に相手と会うときにソーシャルメディア上でのアイデンティティに寄せて振る舞ってしまわないだろうか。特に、恋愛を目的としたマッチングアプリでは、相手はオンライン上の自分に興味を持つわけだから、現実の世界でそのイメージを壊さないことが成功率に貢献するようにも思えてしまう。
自分が拠点とするイギリスではマッチングアプリが広く浸透している。恋愛目的のみならず、友人やビジネス相手を探す機能なども多様化していて、自身を含め一度は使った経験がある人がほとんどだ。だけどその登録者数の多さゆえ、出会いがエンドレスに思えてしまい、たとえ相性がいい人とマッチしても、「まだほかにも候補がいる」と感じていつまでもスワイプを続けてしまうことも。出会いの価値を決めることはできないけれど、現実よりもカジュアルだからこそ、ひとつひとつをライトに扱ってしまう節がある。
ほかにも、デートの約束までしていたのに急に連絡が途絶えたりする「ゴースティング」の被害に遭うのもよく聞く話だ。もしこれがリアルな出会いだったら、互いの存在を肉体として認識しているからこそ関係に一定の責任が生まれる感覚がある。だから、唐突に関係を絶つことは少ない。
ソーシャルメディアで出会った相手も、基本的には現実世界に実在していてリアルで出会う人たちと変わりないはず。にもかかわらず、画面越しの“データ”として接してしまう。声のトーンや話し方、身振りの癖などといった仕草も知らない。そうなると、相手をひとりの人間として具体的に想像できないからか、人間だけど人間じゃない“像”と接しているような感覚に陥るときもあって、相手へのリスペクトが難しくなってしまうのかな。
Q4. そんな組み分けは必要?
プライベートな出会いについては、まずは現実で自分自身を知ってもらいたいという思いがある。ソーシャルメディアを介して、外向けな私のイメージが前情報としてすでに相手に渡っている状態から会うよりも、対面でのやりとりから関係を築いていくほうがしっくりくる。
仕事柄ソーシャルメディアを使う機会が多いせいか、プライベートとオンラインの世界を切り分けたいという意識が一層強いのかもしれない。例えば、メッセージのやり取りをしている相手に「Instagramやってる?」と聞かれることもあるけれど、その瞬間に少し身構えてしまう。もちろん、ソーシャルメディアに存在している姿も自分の一部ではある。一方で、それは編集されて切り取られた“私”であって、ありのままの姿とは少し違う。だからこそ、出会いの初期段階でオンライン上の情報からリアルな自分を推し量られることに、どこか抵抗を感じるのかもしれない。
結局それは無意識的に、「ソーシャルメディアの自分」と「リアルな自分」の棲み分けを必要としているからかも。どちらも本物でありながらどこかで線引きをしておきたい、そんな感覚がプライベートな関係性においてはより顕著に表れる。
Q5. もしその組み分けがなかったら?
前述してきたように、現実とソーシャルメディアの組み分けを意識していなければ、「出会い」がはらむ価値や危険性の感度が下がってしまうという懸念がある。「Catfish (なりすまし)」という言葉があるように、ソーシャルメディア上では実在の人物になりすますだけでなく、魅力的な人物像を作り上げて架空の人物になりすますという事例も増えている。少し前まではその判断材料として機能していた声なども、AI技術の普及によって見極めが困難になってしまった。
「信頼できる人物かどうか」「そもそも相手は存在するのか」ソーシャルメディアでの出会いは、より一層慎重に行動することが求められるだろう。また、ソーシャルメディアでの繋がりが増えるほどに、「本当の友達ってなんだろう」「なぜ自分と繋がりたいのだろう」といった疑念に陥りがち。さらなる孤独を感じてしまいかねないことから、メンタルヘルスの面でも十分に注意してほしい。
Photos: Courtesy of Taira Text: Taira Editor: Nanami Kobayashi
READ MORE
- あなたはマイノリティ?マジョリティ?──多層的なアイデンティティのなかで変化する特権性【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.5】
- “文化”によって変わる思いやりの作法──空回りしないために必要な視点って?【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.4】
- いつの時代も絶えぬ“若さ”へのオブセッション。今捉え直したい、若い/若くない【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.3】
- アシスタントを経験せずプロになれる?──ソーシャルメディア時代におけるプロ/アマチュアの境目とは【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.2】
- 「意識高いですね!」と言われてモヤる──これって褒め言葉? 意識が高い/低いってなんだろう【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.1】
- Vogueエディターおすすめ記事が届く── ニュースレターに登録