橋下徹大阪市長に関する特集記事が掲載された週刊朝日(10月26日号)を、私は、発売日の昼過ぎに入手した。

 購入を急いだのは、ツイッターのタイムラインがちょっとした騒ぎになっていたからだ。

「これは早めにおさえておかないと売り切れになるぞ」

 そう直感した私は、直近のコンビニに走った。
 さいわい、店の棚には最後の一冊が残っている。運が良かったのだと思う。

 周囲には、買いそこねた連中が結構いる。聞けば、翌日の朝には、どこの書店を探しても見つからない状態になっていたらしい。それだけ良く売れたということだ。

 が、話は、売れ行き好調ということだけでは終わらない。
 その後に起こった一連の出来事を考えれば、雑誌が完売したことは、悪夢のはじまりに過ぎなかった。

 なんだか、大仰な書き方になっている。
 昭和のルポルタージュの文体に影響されているのかもしれない。

 怨嗟と情念。夜霧に浮かぶ影のような記憶。こういうものの言い方は、ドサまわりの演歌ショーの司会者の語り口に似ていなくもない。路地の空に屹立する煙突。舗装されていない地面にひろがる錆色の水たまり。この文体は一度身につくと容易に離れない。用心せねばならない。

 文章を書く人間は、様々な文体や人格に憑依されやすい一面を持っている。

 この傾向は、取材力ということの一側面でもあるし、対象に共感するための不可欠な能力でもある。が、憑依されやすい性質は、時に、書き手の人格に危機をもたらす。対象に憑依された書き手は、自分を保つのがむずかしくなる。
 それは、とても厄介なことだ。

 件の連載記事を執筆した佐野眞一氏の文章は、典型的な昭和のルポルタージュの文体で、題材がハマれば、それなりの名文を紡ぐことになるものだ。私は、大好きというわけではないが、いくつかの仕事については高く評価している。でも、今回は、失敗だ。
 
 
 今回は、週刊朝日に掲載された「ハシシタ 奴の本性」という連載記事と、それが引き起こした騒動について考えてみたい。

 読み終わって最初に浮かんだ感想は、
「これは騒動になる」
 ということだった。
 内容もさることながら、語り口があまりにひどいと思ったからだ。

 内容的には、連載第一回のテキストに限って言うなら、特に目新しい材料は記載されていない。いずれも、昨年までの段階で、週刊文春や週刊新潮誌上に載った記事や、「新潮45」の2011年11月号に掲載された「孤独なポピュリストの原点」(執筆は上原善広氏)の中で、既に明らかにされている事柄の範囲内にとどまっている。この先、連載が続けば、あるいはより深い取材の成果が披露されることになったのかもしれないが、少なくとも初回の原稿は、「新潮45」の上原原稿のリライトと呼んでもさしつかえの無い程度のものだった。

 ということはつまり、問題は、書き方、ないしは書き手の立ち位置にあったということだ。

 「ハシシタ 奴の本性」というタイトルがすべてを物語っている。
 喧嘩を売っていると受け取られても仕方のないものだ。
 なにより、品が無い。

 素直に読めば、これは、記事を書く側の人間が、あらかじめ悪意を持って取材をすすめる旨を宣言しているカタチだ。こんなタイトルで記事を書いたら、原稿の内容が、たとえ野の花のように可憐であっても、中吊りの広告で流布される部分だけで、人々に良くない印象を撒き散らすことになる。

 ほかにも、本文中には、刺激的な単語がいくつも出てきている。が、ここでは、それらのいちいちには触れない。記事が、全体として、悪意を持った書き方で書かれていたことを指摘すれば十分だ。

 出自に関連する記述や、実父の死、縁戚の来歴にまつわる不祥事は、前述した通り、既に昨年の段階でいくつかの雑誌上で記事になっている。

 その意味では、今回の週刊朝日の記事が書いた内容は、初出の暴露記事ではない。
 にもかかわらず、橋下徹大阪市長は、この記事への抗議の意思表明として、朝日新聞グループ全体に対する取材拒否という、極めて峻厳な態度で臨んでいる。

 昨年来、ほぼ同内容の記事を掲載していた、新潮、文春の一連の記事に対して、強い言葉で罵倒はしたものの、結局、訴訟や取材拒否といった具体的な対抗手段を打ち出すことはしなかったにもかかわらず、である。

 この対応の違いは、どのあたりにあるのだろうか。

 業界筋に流れている分析では、両者に対する対応の違いは、橋下市長が、「相手の足元を見た」からだということになっている。

 一言で言えば、訴訟や抗議に慣れている出版社系の雑誌(←新潮&文春)が、市長がどんな手段で抗議したところで、簡単には謝罪しないのに対して、新聞社系の雑誌である週刊朝日は折れる可能性が高いということだ。

 新潮ならびに文春は、結果がどっちに転ぶのであれ、目先の損得を超えて、決して謝らない集団だ。謝らないということが、彼らの記者魂を支えていると申し上げても良い。彼らは、訴訟であれ取材拒否であれ、闘いを仕掛けられたら、最後まで闘い抜く。よほどのことがない限り、途中で折れることはしない。

 とすれば、闘いの幕が切って落とされれば、それは、市長、出版社双方にとってリスキーなチキンレースに化けることがあらかじめ決まっているわけで、政治家としては、あまりメリットが無い。

 ひるがえって、公称800万部を数える新聞を発行している朝日新聞社は、その公器としての性質からして、抗議や訴訟にはさほど強くない。彼らは、ふだんから人権と良識の守護者としてふるまっている手前、差別や名誉毀損みたいな事柄で争う「泥仕合」は避けたい。そこのところが「社会の木鐸」のつらいところだからだ。

 取材拒否にも弱い。
 特に総選挙が近いと言われている現在のタイミングでは、たとえ一部の政党であっても、注目の集まっている公党に取材拒否を突きつけられることは、来るべき選挙報道においてあらかじめの敗北を宣告されるに等しい事態で、そのような馬鹿げた災難は、何としても回避しなければならない。よって、編集部にでなく、新聞社グループ全体に抗議の刃を向けられた時点で、朝日の側の敗北は、ほぼ決定していた……といったあたりが、事情通の皆さんの一致した見方になっている。

 なるほど。
 聞けば、たしかに、わかったような気持ちになれる話ではある。
 でも、思うに、このテの事情通っぽい解説は、事態の背景を物語っているに過ぎない。 
 本当の争点は、やはり、記事そのものの中にある。

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