『日経ビジネス』9月17日号の「時事深層」に「企業に広がる『SNS疲れ』」と題した記事を書いた。facebookやmixi、ツイッターなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を企業が活用する上での「炎上」リスクと、そのリスクを危惧する企業が抱える「疲労感」を書いたものだ。
これを書きながら、学生時代に読んだ1冊の本を思い起こした。ミッシェル・フーコーの『監獄の誕生―監視と処罰』(1975年)。コレージュ・ド・フランスの教授だったフーコーは、この本の中で、中世以降の監獄と処罰の「近代化」の歴史を紐解きながら、そこに生まれた権力作用を巧みに浮かび上がらせていく。
この本で象徴的に紹介されているのが、英国の哲学者・経済学者ジェレミー・ベンサム(1748年-1832年)が創案したとされる「パノプティコン(一望監視装置)」だ。
中心部に監視塔があり、その監視塔を取り囲むように放射状に独房が配置されている。監視塔を光源として独房向かって光が当てられる仕組みになっており、監視塔から独房を監視することはできるが、逆に独房から監視塔の様子は見えない。監視塔に看守はいるかどうか、看守がどの独房を監視しているかは、収監者からは分からない。分からないが、常に「見られている」と意識して生活せざるを得ない。
一般社会では、AとBはお互いに「見る」し「見られる」関係にある。しかしパノプティコンは、そうした対等な「見る/見られる」の関係性を切り離し、一方通行にする。「見られるが見ることはできない」囚人は、「見ることはできるが見られることはない」看守から強い権力作用を受ける。しかも、看守が本当に見ていようが見ていなかろうがその作用は自動的に継続する(見られている可能性を囚人は意識し続けるから)。
功利主義哲学者であるベンサムは、「肉体」に対する抑圧や処罰によって支配する中世以来の「非人道的」な監獄に異を唱え、「精神」を支配するための効率と効果を最大限に高めたこの装置を創案した。だが、フーコーの著書を読み進めると、肉を割き骨を削る中世の監獄と、心を縛る近代の監獄、果たしてどちらが「人道的」なのかにわかには分からなくなる。
現代に生きるパノプティコン
パノプティコンの発想は、現代の刑務所の設計にも生きている。
山口県美祢市にある美祢社会復帰促進センターを2009年に取材した。日本で最初にPFI(民間資金を活用した社会資本整備)方式で設計・運営されることになった刑務所だ。
刑務官などが監視するための部屋が中央に置かれ、そこからやはり放射線状に居室が並ぶ廊下が伸びている。独房を直接監視できるわけではないが、廊下の幅が奥にいけばいくほど狭くなるように設計されており(「ハ」の字状)、監視室から居室の扉はすべて見渡せる設計になっている。監視室の窓はマジックミラーになっていて、中から外は「見える」が外から中は「見えない」。
パノプティコンは監獄だけにあるものではない。
数年前、記者はある大手家電量販チェーンを取材した。その店舗には「監視カメラ」が設置されてる。このカメラは本部に接続されていて、本部社員がいつでもその店舗の様子を、地理的に離れた本部にいながら見ることができる。棚の陳列や店員の接客姿勢などを指導するためのツールだという。店で働いていると、本部から「2階のテレビ売り場の店員、油を売っているぞ」などという指導の電話が入る。
天井にぶら下がり、蛍光灯の明かりを鈍く反射させる灰色のレンズを眺めながら思った。これも一種のパノプティコンだ。店からは「見ることはできない」が、本部からはいつも「見られている可能性がある」。いつも「見られている」とは限らないが、「いつ見られるか分からない状態」が継続している、言い換えれば「いつも見られている可能性がある」状態が継続していれば、「いつも見られている」のと同じ権力作用を受けることになる。
小売業やサービス業に、「ミステリーショッピング」という手法がある。いわゆる覆面調査員が、顧客を装ってサービスを受けて問題点を炙り出すという手法だ。これも使い方によってはパノプティコンに近いものがある。毎日来るとは限らない。平均すれば3カ月に1回かも知れない。だが、次々に店を訪れる無数の老若男女の中に、いつかミステリーショッパーが混じってくる可能性がある。その調査員は店員の姿勢を「見る」ことができるが、店員は誰がミステリーショッパーか「見る」ことはできない。その自動的に継続する「まなざしの権力」によって、店員は接客姿勢を正すことになる。
もちろんミステリーショッピングには、顧客に対するアンケート調査では聞き出せない「生の顧客体験」を捕捉できるという利点がある。だが、そうした利点でなく、その権力作用・監視作用を期待して企業がこの仕組みを導入すれば、その店は、そこで働く人たちにとって「監獄」に一変する。
私たちは「監獄」に生きている。パノプティコンに囚われた者として。
【初割・2/5締切】お申し込みで…
- 専門記者によるオリジナルコンテンツが読み放題
- 著名経営者や有識者による動画、ウェビナーが見放題
- 日経ビジネス最新号13年分のバックナンバーが読み放題