8月半ば、漫画家・中沢啓治氏(故人)の代表作『はだしのゲン』が、昨年末から松江市立小中学校の図書館で「閉架」(オープンな書棚に並べず、自由に閲覧できない)の状態にあることが一斉に報じられた。市の教育委員会が閲覧制限を求めたのに応えた措置とのことだ。

 学校附設のものながら、公共の図書館が外圧によって蔵書の扱いを変えた。こうした「事件」が起こるたびに、「図書館」というものの機能と役割について考えさせられる。

 図書館はあらゆる外圧からの独立を守られるべきである。これが、記者の立場だ。今回の事件を、日本社会の右傾化を象徴する出来事として捉える向きが多い。だが、今回の圧力が、たまたま、どちらかと言えば政治的に「右」に位置する立場からのものだっただけだ。公共図書館は、政治的な立場の左右にかかわらず、常にこうした外圧にさらされて来た。

 例えば、2001年、政治的にはまるで「逆」の事件が起こっている。千葉県船橋市西図書館において、司書資格を持った職員が、個人的な政治理念に基づいて「新しい歴史教科書をつくる会」会員らの著作を廃棄処分にしてしまったというものだ。関係者は処分され、蔵書は復元された。職員による行為ではあるが、こちらは、どちらかと言えば(内部職員によるものだが)「左」からの力によるものだった。

 「はだしのゲン」の閉架を求めた立場に対しても、「新しい歴史教科書をつくる会」関係者の著作を廃棄した立場についても、ここでは同意も不同意もしない。それぞれの著作に、(ある政治的な立場から見たら)どんな「史実」の誤謬があるのかについても議論するつもりはない。

 理由は簡単だ。内容いかんに関わらず、図書館の蔵書収集の自由は守られるべきと考えるからだ。

「内容いかんに関わらず」に例外はない

 内容いかんに関わらず、と書いたのは「政治的」な意味だけではない。2008年、大阪府堺市立図書館では、男性同士の恋愛をテーマにしたいわゆる「BL(ボーイズラブ)小説」について、これを図書館に置いておくべきか廃棄すべきかという議論が起こった。廃棄派は過激な性描写を含むBL小説を「有害図書」であるとして排除を求め、ジェンダー論の立場からは性的マイノリティを排除することの危険性が訴えられた。この騒動に対する記者の立場も同じだ。有害か無害か、性的マイノリティの権利が守られるべきかどうかという議論に個人的な意見はあるが、それとは一切かかわらず、司書が収集した図書はあらゆる圧力から守られるべきである。

 そうは言っても、有害愚劣な図書というものはあるだろう、という反論があろうかと思う。例えば1996年、ある団体が、静岡市立図書館に対して、所蔵する『タイ買春読本』という書籍を廃棄するよう要請を出して議論を呼んだ。海外での買春を指南するような内容ゆえ、倫理的、社会通念的に公序良俗に反するかどうかで言えば「反する」のは確かだろう。だが、たとえこうした内容の書籍だったとしても、図書館がひとたび収集した図書であれば守られるべきだという意見は変わらない。

 世の中には、愚劣なだけでなく、「実害」を起こす可能性のある本もある。自殺の方法を詳細に説明した書籍が上梓されて話題を集めた折、自殺を誘発しかねない「有害図書」を公共図書館が所蔵、開架すべきかという議論が起こったこともあった。これに対する立場も、やはり他と何ら変わらない。

 なぜか。図書館が、「いま、ここ」にある社会というものをアーカイブする役割と機能を託された存在と考えるからだ。

醜いものを「なかったこと」にする罪

 例えば、数十年後、あるいはもっと先の日本で、仮に「タイで買春するなんて日本人はいなかった。歴史の捏造だ」という議論が起きたとする。図書館がこの書籍を所蔵、保管していれば、歴史修正主義の欺瞞を打ち破る史料の1つになるし、もし図書館が圧力に屈して廃棄してしまえばその機会を失うことになる。「いま、ここ」において正しいか正しくないかという判断を下し、ある書籍を図書館から抹消してしまうことは、数十年後、あるいはもっと先に、「正しくなかった」ものが存在していたという事実を証明することを難しくする可能性がある。あるいは逆に、正しい/正しくないという価値判断のパラダイムが変化したのちに、再評価する可能性を奪うことにもなる。

 現時点で「正しい」か「正しくないか」かという立場によって、将来、「いまという過去」を検証する手段を奪うことをすべきではない。愚劣低俗な社会の図書館の蔵書は、愚劣低俗なものになるだろう。だが、それでいい。第一、低劣なものから目を背けるために図書館でこれを排除しても、その図書を受け入れている「いま、ここ」にある社会は何一つ変わらない。

 この議論の前提には、言うまでもないことだが、日本国憲法で保障されている「表現の自由」がある。誰もが、何に縛られるでもなく意見を述べ、出版する権利を持っている。その自由に基づいて発刊されている数多の図書を収集し、所蔵する「記録者」の役割を担うのが図書館。ゆえに、出版の自由と、図書館の独立は表裏一体だ。表現の自由が許されていない検閲国家の図書館には、社会を真にアーカイブする機能を期待することはできないだろう。図書館が、特定図書を排除せよというあらゆる権力から「無条件に」守られなければならないのは、表現の自由がそうであるのと同様だ。

 収集機能だけを考えるなら、「有害図書」は閉架にすればよいという考えもあるだろう。だが、開架(オープンな書棚に並んで、利用者が自由に手に取ることができる状態に置かれていること)とされていた図書が、執拗な抗議に屈して閉架になればどうなるか。図書館司書は以後、そうした書籍を収集することをためらうことになる。そうした心理作用の蓄積は、図書館の蔵書収集を一定の方向に収斂させかねない。だから、図書館が図書の保管方法を決定する自由も、収集の自由と同様の強度で守られるべきなのだ。

 一方で図書館は、市民のニーズから離れて、司書の個人的な関心に基づいて図書を収集することを戒めなければならない。どれだけ過激で有害な図書も収集する権利も持つし、その権利はあらゆる圧力から守られるべきだが、同時に、選書は市民の総意を反映したものである必要がある。「利用率」を測定して、それを最大化しようというメカニズムを働かせる必要がある、ということだ。

 つまり図書館は、ある図書を「所蔵してほしい」というニーズに、声なき声も含めて常に耳を傾けるべき(もちろん予算と収蔵スペースが有限である以上、司書が判断しなければならない)だが、そうしたニーズを踏まえて収集した図書であれば、これを「廃棄せよ」「閉架せよ」という声には一切耳を傾ける必要はない。あらゆる権力や利害関係者に対してメタな立ち位置から「記録」する役割を担うために、こうした極めて強力な権力が付託されるべき存在なのだ。

 この極めて強力な権力を付託された図書館司書には、当然ながら、相応の職業倫理と高い技能が求められることになる。司書という職業が置かれた環境が、果たしてそれらを育めるものになっているかどうかを省みる必要もあるだろう。

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