フランス人経済学者トマ・ピケティ(Thomas Piketty)氏が書いた『21世紀の資本論(Capital in the Twenty-First Century)』が今、米国をはじめ世界中で注目を集め、売れに売れまくっている。700ページ程の分厚い経済書としては異例の出来事だ。皮肉にも、ピケティが上位1パーセントの高額所得者に仲間入りするのは確実だ。『資本論』出版のタイミングと誰にでも理解できる大胆な政策提言(富裕層から富を税金で奪い取れ)は、米国政治の右派と左派の感情を刺激するには完璧であった。

 2008年に始まった世界金融危機以降、一般大衆は失業や低賃金など経済苦境を長く経験してきた。同時に、かれらは金融危機を引き起こした張本人であるはずの、投資銀行の最高経営責任者(CEO)達が一般労働者の1000倍近い超高額報酬を得ているのを見ている。

 そして、多くの人びとが資本主義そのものに疑問を感じ始めた丁度その時、ピケティの『資本論』が店頭に出てきたのである。それは多くの人びとが感じていた貧富格差拡大の事実をデータで裏打ちし、しかも不平等是正のための政策提言を積極的に行ったのである。すなわち、「富裕層の所得と富に高い税金をかけて奪い取れば不平等は解決するのだ」と。

データ不備の指摘は本筋にあまり影響がない

 そのメッセージはあっという間に、近年ますます顕著になってきた米国政治の右派・左派対立の火種に油を注ぐことになった。ポール・クルーグマン米プリンストン大学教授やジョセフ・スティグリッツ米コロンビア大学教授などの左派有名人がピケティの『資本論』を褒め称えると、右派はさまざまな側面から攻撃を始めた。

 例えば、右派は1980年以降の不平等拡大を示すデータの不備を指摘している。ただし、これはピケティ以前に多くの研究者が異なる資料を使って示していた点であり、今後事実として覆る可能性は小さいと思われる。いずれにせよ、論争は激しさを増しており、まさに乾いた薪に一気に火が燃え広がった状況にある。

ピケティの論点とは?

 世間の政治的大騒ぎから距離を置いて見ても、ピケティの『資本論』は学問的に吟味するに値する本である。それは今までになかった欧米諸国の長期データに基づいた研究の集大成である。『資本論』は大きく分けて3つの部分からなる。

 第1は、所得と富の歴史的分析、第2は所得と富の不平等が21世紀に拡大していくという予測、第3は拡大する不平等をくいとめるための政策提言である。私は、第1の部分を高く評価、第2の部分もおおむね賛成、第3の部分には反対である。まだ本を読んでない人のために、そして私が批評を始める前に、ピケティの『資本論』を要約しておこう。

 『資本論』は、数世紀にわたる膨大なデータ分析に基づいて、産業革命以降の所得と富の変動を分析した研究である。それによると、18-19世紀のヨーロッパは不平等が非常に大きな社会であった。硬直的な階級社会の下で、富は少数の富裕家族の手に集中していた。(富/所得)比率は高く、産業革命以降賃金は少しずつ上昇していくが、不平等社会はそのまま存続した。

 不平等な社会構造は、20世紀に起こった2つの世界大戦と大恐慌によって初めて崩れることになる。戦争による資本破壊、戦争をファイナンスするための高税率、高インフレ、企業倒産、そして戦後多くの先進国が採用した福祉政策によって(富/所得)比率は低下し、戦後は18-19世紀とは大きく異なる比較的平等な社会が生まれてきた。

 しかし、20世紀の2つの世界大戦と大恐慌のショックは、次第に薄れていき、資本の論理が世界を支配し始めている。欧米先進国では、再び所得と富の不平等が拡大し、18-19世紀の水準に回帰しつつある(データについては、記事文末の注のリンク先を参照。Figure I.1 & I.2)。

「資本収益率は、経済成長率より常に大きい」

 これらの研究結果に基づいて、ピケティは不平等と資本の関係についての独自の理論を展開する。その基本となるのが、資本収益率(r)が経済成長率(g)よりも常に大きいという歴史的事実である(Figure 10.9)。一般に、経済成長率が高い時には(富/所得)比率が減少し、低いときには(富/所得)比率が増大する。

 しかし、歴史的事実が示しているように不等式(r>g)が常に成立する限り、富の集中を自然に抑制する経済メカニズムは存在しない。戦後復興期の高成長が今後急激な人口増加や技術革新によって再現されない限り、われわれは18-19世紀に経験した「世襲資本主義(Patrimonial Capitalism)」の時代に戻ることになる。

 そうなれば、不平等拡大によって政治不安は高まり民主主義の脅威となる。それを事前に回避するために、ピケティは「高率累進所得課税」と「グローバルな『富』への課税」という政府介入を提案する。

『21世紀の資本論』の批判的評価

 ピケティの分析と結論に関して複数の問題点を指摘することができる。第1に、ピケティの議論の中で重要な役割を担っている不等式【r(資本収益率)>g(経済成長率)】が21世紀になって成立しなくなる可能性を否定することはできない。

 一般に、資本蓄積が進むにつれて、資本収益率は低下していくと考えられる。技術革新のみがそれを防ぐことができる。またノーベル賞経済学者、ロバート・ソロー米マサチューセッツ工科大学(MIT)教授の成長理論によれば、長期均衡は定常状態によって規定される。

 すなわち、ピケティの不等式が長期的定常状態では成立しなくなる可能性がある。問題は、ピケティが不等式(r>g)を説明する経済モデルを提示していないことにある。ある過去の現象が将来も継続することを示すには、その現象を理論的に説明できるモデルが必要だ。ピケティの不等式を説明できる経済モデルが欠如している限り、それが21世に消滅する可能性を否定することはできない。

 第2に、実は、ピケティ不等式(r>g)は富の不平等が拡大するための必要条件ではない。ピケティの資本収益率(r)は平均収益率である。現実には資本収益率は個々の投資対象によって大きなばらつきがある。そして、資本収益率の分散(ばらつき)が大きければ、たとえ r=g であっても、結果として生まれる富の不平等は時間と共に拡大する。

 この段落は多少専門的な表現になるが、例えば、資本収益率が正規分布によってほぼ近似できると仮定すると、分散(ばらつき)が大きければ、生成される富の分布は平均値が左低位に非常に片寄った対数正規分布になる。

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