もはや風物詩ですが年表をまとめておきます。
Date | 事柄 | 補足 |
2007年4月 | 現村長が24年ぶりの選挙の末に当選 | 三つ巴の選挙戦 |
2007年5月 | 3代前の医師が退職 | この時点で無医村 |
2007年11月 | 2代前の医師が就職 | 6ヶ月の無医村状態が解消 |
2008年3月 | 2代前の医師が辞意を表明 | 2代前の医師が辞意表明まで4ヶ月 |
2008年12月 | 2代前の医師が退職 | 2代前の医師は13ヶ月で退職 |
2008年9月 | 先代の医師が応募 | * |
2009年1月 | 先代の医師が就職 | ギリギリ無医村回避 |
2010年2月 | 先代の医師が辞意を表明 | 先代の医師が辞意表明まで13ヶ月 |
2011年5月 | 前村長の再選ならず 先代の医師が退職 |
先代医師は2年4ヶ月で退職 |
2011年6月 | 現在の医師が就職 | ギリギリ無医村回避 |
2012年7月 | 現在の医師が辞意表明 | 現在の医師は13ヶ月で辞意表明 |
村内政治的に言うと先々代村長は6期24年の長期政権ですが、前村長は村の有力家(庄屋の家系だったと思います)出身とは言え、村を出て法学畑で成功を収めた人物です。現村長は村議出身で、2011年5月の村長選の結果としてあきた北新聞社は、
中田 吉穂 60 (無新) 1,227
小林 宏晨 73 (無現) 955
ちなみに2007年の前回村長選は、
小林 宏晨(無新) (69) 880票
小林 寛 (無新) (68) 841票
小林 俊悦(無新) (62) 665票
都市部のように浮動票の争奪戦は殆んどありませんから、前村長派以外が「反村長」に回った結果と見れなくもありません。でもって2007年から4人の医師が退職(現医師は辞意段階)されているのですが、気になったのは3代前の医師です。辞職した時期がなんとも微妙な前々回村長選(2007年)の翌月です。この医師についての情報を2007年当時にもう少し調べておけば良かったのですが、 かすかな情報として2代前の医師が
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初めての公募であった
2007年5月の辞職は5月と言う点から考えても医局人事によるものと考えますが、この3代前の医師への扱いはどうだったのだろうです。その後の辞任劇を考えると、なんとなく「3代前の先生の頃は・・・」なんて比較が出ていた可能性もありますし、その後の医師と同様の仕打ちを受けながらも「そういう場所だから我慢する」もあるかもしれません。
この辺は曖昧でも期限の定めがある医局人事による赴任と、事実上の終生勤務の公募医師の就職の違いは出てくるところです。これ以上考えても材料が乏しいので、3代前の医師はそれなり(上小阿仁レベルで)に円満に退職したぐらいにしておきます。
医局人事から外れた上小阿仁村診療所ですが、赴任時の状況を伝える河北新報記事を筍ENTの呟き様が保存されていました。一部紹介しておきます。
内科医の松沢さんは、首都圏の病院に勤務した後、「医師を志した原点である『へき地医療』を担いたい」と、栃木県の農村部で開業。20年間、地域医療を支え続けた。地域の医療事情が改善し、「もっと困っている場所で診療したい」と考えたという。
医師が切実に求められている地域を探すため、7月にインターネットで「へき地」「無医村」をキーワードに検索し、最初に目に留まったのが上小阿仁村だった。村に連絡を入れると、早速、強い誘いを受け、「そんなに喜んでもらえるのなら」と今月1日からの勤務を決めた。
新潟県出身の松沢さんは、東大文学部に進学後、シュバイツァーの著作に感銘を受け、「恵まれない人の役に立つ仕事がしたい」と、1年で東大医学部に入り直した。文学への情熱も冷めず、医師になった後も小説2作を出版した異色の経歴を持つ。
当時の松沢医師は67歳と記事にありますが、経歴を見る限り僻地医療の適任者の資格は十分にあります。これだけの情熱と経験をもって赴任しても辞意表明まで4ヶ月、退職まで13ヶ月です。松沢医師は本を書くぐらい筆が立つので平成20年9月広報かみこあにに、
一度は書かなければならないと思っていたことを書いてみます。
「診療所を守るために」としたのは、この診療所の存続があやうい状況になっているからです。その原因の第一は、医者がいなくなるということ。第二は診療所の赤字が続くということです。
第一点は、この村の執行部の人々の、医者に対する見方、接し方、処遇の仕方の中に医者の頑張る意欲を無くさせるものがあったということです。
報じられたように、この私はすでに辞表を出し受理されています。「次の医者」を見つけることは相当に困難でしょうし、かりに見つかってもその人も同じような挫折をすることになりかねないものがあります。
医者のご機嫌取りなど無用、ただ根本的に医者を大切に思わない限りこの村に医者が根を下ろすことはないでしょう。村の人も「患者は客だ」などとマスコミの言う風潮に乗っていてはいけません。そういう道の果ては無医村なのです。
最近も近在病院の院長・医者が辞めていきました。病院自体がもう危機的状況に陥っています。その医者たちは、私に言っていました、こんな田舎でも働きがいがあります、それは、皆の「ありがとう」と言う言葉と、にじむ「感謝の気持ち」です、と。
そういう人たちを辞めるまで追い詰めたものは何か、人ごとでなくこの村の問題でもあるんだと考えてみて下さい。
探してみるともう一つ気になるのが平成20年6月広報かみこあにに、
診療所への一通の投書に、「血圧の測定なんてだれにでもできることは看護師にまかせて医者は診療に専念し、もっと待ち時間が少なくなるようにせよ」というのがありましたが他の医療機関に比べて長いとは私は思わないし、大いに努力もしているのですが、気の短い人もいるのでしょう。
2008年3月時点で既に退職願を出していますから、そんなものかもしれませんが、少し示唆的です。当時の松沢医師の忙しさについては、広報かみこあに平成22年3月号にあるので周辺情報も合わせて表にして見ます。
年度 | 赤字額 | 診療・経営情報 |
2005 | 4200万円 | 3代前の医師時代 |
2006 | 3800万円 | |
2007 | 4000万円 | 5月から6ヶ月常勤医不在 |
2008 | 3000万円 | 外来42人 |
2009 | 2700万円 | 外来56人 |
3代前の医師時代の給与は不明ですが、仮にその後の公募医師と大差がないとすれば、3代前時代は1日平均42人よりもっとヒマだったのでないかとも考えられます。3代前の医局人事時代の給与が安ければ、なおさらヒマだったのかもしれません。そういう時代の記憶が残っていれば、先代や2代前の医師に対し「待ち時間が長すぎる」の不満が出たとは考えられます。1日平均30人、いや20人そこそこだったかもしれないからです。つまり受診すればホイキタ状態です。
それとこれは前にも書きましたが、1日平均56人も患者があって、なおかつ2700万円の赤字が出てくるのは、私のような零細経営者には理解し難いところです。やはり人件費でしょうか。
先代は有澤医師です。経歴を平成20年12月号広報かみこあにから引用します。
東京女子医科大学医学部を昭和45年に卒業後、東京女子医科大学附属第二病院の医局に入り、10年間小児科、内科医師として勤務され、その後平成3年から5年8ヶ月間、タイで国際医療ボランティアとして、発展途上国の医療に従事されていました。帰国後、北海道利尻島の道立病院で地域医療にたずさわり。17年9月から兵庫県にある聖隷福祉事業団真生園診療所長をしておられた方です。
ちなみに聖隷福祉事業団真生園とは障害者福祉施設であり、場所は兵庫県和田山市竹田です。皆様にわかりやすいように言えば但馬です。でもって赴任当時の有澤医師は63歳。ひょっとして定年にでもなったのかもしれませんが、2代前の医師に勝るとも劣らない僻地医療のプロです。有澤医師は松沢医師よりも頑張り、辞意表明まで13ヶ月、勤務期間は実に2年4ヶ月に及びます。
有澤医師の辞任の経緯は上小阿仁村・上小阿仁村後日談で既に触れていますからもう良いでしょう。あえてこの村特有の政争の激しさで言えば、有澤医師は前村長時代に公募に応じた医師であり、前村長は2011年5月に落選、翌月に有澤医師は辞職されています。
あんまり情報がないのですが、年齢は49歳、前任地は北海道の北見市で2011年6月に赴任、2012年7月に辞意表明です。先代医師と同様の13ヶ月です。辞任理由は秋田魁新聞によると、
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退職理由について、取材に「内地の気候が合わないからで、後は特にない」と話した。
地方勤務の医師が足りないとして、足りない地方に強制的にでも医師を送り込めの案さえ出てくる昨今です。そのために「地方枠」とか、「地域枠」とか、「○○枠」なんてものが花盛りになっています。それ以外にも地域医療に学生時から親しませるプログラムが絶賛される世の中です。また手を変え、品を変え官製医局による医師強制派遣システム構築に厚労省は突き進んでいます。
そういう派遣対象医療機関に上小阿仁村診療所も該当するかと思います。現在はそういうシステムは事実上機能していませんが、将来これが機能し、さらにその時に上小阿仁村診療所が健在なら当然のように該当します。
日本中の僻地が上小阿仁村同様と言う気はありません。2代前も先代の医師も上小阿仁村以外で僻地医療に励まれ、そこでは十分なやりがいを感じておられたのは確認できます。ただしヤリガイのある僻地とそうでない僻地の比率は現実としてどうなんであろうです。たとえば最後にミソをつけてはしましたが、夕張の村上医師に対するバッシングも相当なものでした。村上氏がかつて赴任された瀬棚も相当でした。
古典的ですが泉崎村も有名になりましたし、金木病院や彦根市民も記憶に残るところです。尾鷲も凄かったのはよく覚えています。この辺は赴任する医師と住民との相性もあるとは思いますが、漠然と思い浮かべるようなヤリガイのある僻地医療が実現している地域はどれほどあるのだろうです。上小阿仁村は少々特異度が強いとしても、セミ上小阿仁村状態の地域は案外多そうな気がします。
それでも柏原モデルと逆の意味で象徴的ですから、本当に医師を呼びたい地域の方々への他山の石ぐらいには本来は成るはずです。もっともヒトによっては、「あれぐらいでも医者は来るんだ♪」になるかもしれません。ま、教訓を深化させる為には、医師側の協力も欠かせないと感じています。
上小阿仁村の件はぐり研ブログ様が調べられておりまして、その中にあきた女性チャレンジサイトの記事が引用されておりました。村内の有志が特定非営利活動法人上小阿仁村移送サービス協会を立ち上げ、その定款には、
この法人は、村内の高校生以上の人または村への来訪者などに対してその移動を補完する事業、ならびにその他の上小阿仁村の交通を補完するための事業を行う。これらによって公益の増進と福祉に寄与することを目的とする。
具体的は
村内の交通事情として、鷹巣方面と五城目方面にそれぞれバスはあるものの、利用者数は非常に乏しく、タクシーは1台常駐していたが利用者はまれ。つまり、大多数の交通弱者は経済的には最寄の病院ですら利用がむずかしく、身体条件からバス利用も困難。車のない家庭は村内1100世帯中210世帯。
運転のロスがないように、また知っている人に乗せてもらえるように、女性は女性に乗せてもらいたいという要望等々の条件を考え、いろいろな部落から、また男性も女性も運転者として選びました。ほとんど定年後の方々です。
要は有償だが安価に近隣都市への移送サービスを行うぐらいの事業です。「一緒に乗せて行って」のビジネス化みたいなものと思えば良いでしょうか。これに対する村議会の反応が大変だったようで、
ところが、村議会が何回も反対しました。「病院帰りにスーパーで買い物されると、村内の店が売れなくなる。」「そんなことやってバスも撤退したら、バスもない村なんてイメージダウンだ。」「タクシー会社みたいに安全対策に大きな金をかけられるのか。」などがその内容でした。
ここでチョットだけ笑ったのは、
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「そんなことやってバスも撤退したら、バスもない村なんてイメージダウンだ。」
法人設立認証年月日 2005年01月11日
つまり医師イジメ騒動の前です。今ならきっと「バスがない村」程度はさしたるイメージ問題にならなかったと思います。「医師をイビリ出す村」のイメージに較べれば無に等しいと存じます。