ウィキリークス×スパム×酔っ払い運転
塩野七生のヴェネチアものを読むと、外交機密文書をネタにしている話がたくさん出てくる。
当時のヴェネチアは、オスマントルコとバチカンという二大勢力にはさまれながら、経済力と海軍力に加え、緻密な外交戦略で、両者に対抗していた。各国駐在の大使が、それぞれの国の状況をレポートにして本国に報告し、本国では○人委員会というごく少数のエリートたちが、そのレポートを元に戦略を練りあげ、大使に指示を出す。
どの国にも権力争いはあるので、その対立を煽り、勢力を均衡させるように微妙に介入することによって、大国の動きを鈍らせ、領土の狭さ、人口の少なさを補っていたのだ。その介入は直接的で明解なものではなく、ビリヤードのように、あちらを突くとこちらが動き、それによって、この玉とこの玉の距離が離れる、その間を別の玉に通過させるというような、複雑きわまりない、綱渡りのようなあやうい戦略だった。
当時は、ウィキリークスなんてものがなかったので、その謀略に関する情報は、ヴェネチア内部でもごく一部の限られた人しか目にすることがなかった。用を果たして何百年も書庫に眠っていた機密文書を、歴史の研究者が探し出して、たくさんの文書を突き合わせて元の戦略を推測も含めて復元し、その結果が、ベストセラー小説になっている。
外交というものは、何百年もそうやってきた。この習慣は簡単には変わらないだろう。
しかし、この習慣は、紙というデバイスの特性に依存した習慣だと思う。
紙に書いた文書は、それを保存しておく場所の出入りを制限することで、機密が保てる。丈夫な建物を建てて、出入りを制限するには、コストがかかるが、コストをかければ、かけたコストに比例して、機密を保つことはできる。
デジタルな媒体に記録したビットとしての情報には、そのような都合のいい特性がない。ビットは、コピーするのが容易だ。そもそもネットで言う「通信」とはコピーのことで、この文書をあなたが読む時、サーバからあなたのブラウザまでの間には、いくつものルータがあって、そのルータ全てに、同じビットが複製されている。ルータ上のビットは、次の瞬間すぐに廃棄されるが、それを別の所に永久保存することは簡単だ。
コンピュータは万能シミュレータなので、紙のふるまいを真似ることも得意だが、ビットらしくふるまえば、紙と随分違う働きをする。
ウィキリークスは、良くも悪くも革命的だとみなされているが、私から見ると、まだ紙に随分未練を持っているように思える。
紙の上でつちかわれたジャーナリズムの常識に照らし合わせて、問題がない情報を選別したようである。
その選別のしかたの是非が問われているが、選別しようとするだけ、まだアサンジュ氏なる人物は常識人だと思う。
これから、多くのウィキリークスが立ち上がり、その多くは、よりビットネイティブな考え方をするだろう。また、そのうち何人かは、スパマーのように、世の中への迷惑を考えず利己的にふるまい、そのうち何人かは、酔っ払い運転をするドライバーのように、無謀で「自分だけは大丈夫」と根拠なく考えるような人間になるだろう。
スパマーと飲酒運転を根絶できないように、ビットに依存する社会はウィキリークスを根絶することはできないと思う。
しばらくは、その流れは逆行するように見えるかもしれない。情報の管理はより厳格になり、インターネットそのものが厳重な統制下に置かれることになるだろう。政府や大企業は、大きなコストをかけてでも、セキュリティを守ろうとして、ヴェネチアの時代からやってきたことをそのままやり続けようとするだろう。
あたりまえの倫理観を持ち、あたりまえに損得勘定を持つ人間に対しては、紙でやってきたこのシミュレーションを続けることはできる。情報にランクをつけて、ランクに従い、それにアクセスできる人間の信頼性を多面的にチェックしていけばいい。
しかし、スパマーと飲酒運転を根絶できないことが、人間は、そういうわかりやすいものじゃないことを示している。世の中には、想像を超えたバカがいる。多面的な方向に独創的なバカがいる。
紙がビットに代わったことによって構図が根本的に変化している。コストに比例してセキュリティが厳重になっていくということは、もうない。ビットは、一回だけ漏れたその瞬間に、無限大に増殖するのだ。
だから、紙の名残りが残っているうちに、機密情報の量をとことん絞りこむべきだと思う。絞りこんだ上で、ビットにしないで紙のまま管理するか、ものすごい金額をかけてセキュリティを再構築する。そうやってソフトランディングすべきである。
「ソフトランディングすべきである」という文の主語が何なのか、私にもよくわからないのだが、政府とあらゆる企業は該当者だろう。たぶん「世界中の全ての組織は」が主語になるのだと思う。
「たかがネットに何をおおげさな」と思う人が多いだろうが、これをネットの問題と考えるからそう思うわけで、これは実は紙の問題である。たとえば、紙を一瞬で食べ尽くしてしまうような細菌が遺伝子操作で出現してしまい、それが世界中に広まって紙というものが使えなくなったら、あらゆる国のあらゆる組織は一律に長期的な影響を受けるわけで、それは外交とか企業秘密とかそういうレベルの問題ではないわけで、それに近いような事態が、今、静かに進行しているのだと思う。
ビットに紙のシミュレーションをさせているから、それがよく見えてないだけの話である。