Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

『科学を語るとはどういうことか:科学者、哲学者にモノ申す』

須藤靖・伊勢田哲治

(2013年6月30日刊行,河出書房新社[河出ブックス・057],東京,301 pp., 本体価格1,500円,ISBN:978-4-309-62457-0目次版元ページ

【書評】※Copyright 2013 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



科学と科学哲学との重層的すれちがい



いささか口の悪い悪童(=物理学者)と達人の尊師(=科学哲学者)が重層的にすれちがう.全編を通じて科学者と科学哲学者との長い「対話」が続くのだが,相対しつつも目線がちがう方向を向いていて,なお言葉が絡みあうフシギな流れが楽しめる.科学者と科学哲学者が「いかに対話できるか」ではなく,「いかにすれちがえるか」が実感できる本.



おそらく「科学」というグローバルな総称ではひとくくりにできないほど,個々のローカルな「科学」および「科学者」のバックグラウンドは多様なのだろう.本書に登場する「科学者」は宇宙物理学が専門である.彼の科学哲学に対する問題意識(対決姿勢)は,冒頭章に述べられているとおりである


  • 「私は科学哲学が物理学者に対して何らかの助言をしたなどということは訊いたことがないし,そらく科学哲学と一般の科学者はほとんど没交渉であると言って差し支えない状況なのであろう」(p. 14)
  • 「最新の自然科学の成果を取り込むことなく,ずっと以前から繰り返されている哲学者のための哲学的疑問をいじることのどこに意味があるのだろう.科学哲学は科学を,あるいは世界を本当に語ろうとしているのだろうか」(p. 15)



対する科学哲学者はこう述べる:


  • 「科学や科学者のために研究していると思っている科学哲学者はあまりいないと思います.基本は自らの知的好奇心に従って自分のやりたい研究をやっているわけです」(p. 270)
  • 「科学哲学も,科学を素材として行っているとはいえ,哲学の一分野であり,哲学に内在的な問題意識で動いています」(p. 280)



本書では,因果論や実在論を含む,物理学というローカルな個別科学にとってなじみやすい話題が忠心となる.科学者と科学哲学者とのはてしない「対話」の果て,最後の第7章「科学哲学の目的は何か,これから何を目指すのか」で,いきなり両者の目線が絡みあい,見方によっては “有意義” な結論が散発的に聞こえてくる.



もちろん,わかりあえたという表現はふさわしくない.伊勢田の「決着はつかないでしょうね」(p. 284)という感想,そして「私自身は「科学哲学」の目的に関して,結局あまり説得されなかった」(p. 293)という須藤の返事からわかるように,「対談でありながら,予定調和的めでたしめでたしで無理矢理終えようとしなかった」(p. 292)点が実は本書のおもしろさの源泉なのだとワタクシは感じる.



さて,本書を読み進むと,ところどころで物理学者リチャード・ファインマンのことば「科学哲学は鳥類学者が鳥の役に立つ程度にしか科学者の役に立たない」(p. 14)が姿を現す.須藤に対する “刷り込み” 効果は絶大だったことが推測される.しかし,生物体系学に目を向ければ,ファインマンの言葉はとっくの昔に科学史的に反証されている.



実際,過去半世紀にわたる生物体系学は,カール・ポパーをはじめ “役に立つ” 科学哲学者の言説を好き放題に利用してきた.生物体系学という物理学とは別のローカル個別科学の土俵の上で科学哲学が “武器” として使われてきた歴史は,ひょっとしたら例外的な事例かもしれないが,それでもファインマンの格言の反証事例としては十分である.分類学者・系統学者たちは科学哲学を踏み台にして科学論争を戦い続け,科学哲学者たちは彼らの業界ではけっして期待できないほど高いインパクトファクターをもつ Systematic Biology 誌や Cladistics 誌に論文を掲載することができた.この意味で,科学と科学哲学は生物体系学においては長年にわたる「相利共生」の関係を築いてきた.



かつての大上段に振りかぶった(「科学とはそもそも」的スタンスの)グローバルな科学哲学から,いまではローカルな個別科学に即したローカルな科学哲学が立ち上がってきた.生物体系学での表面的な「相利共生」は実は「片利共生」が二重に重なっていただけかもしれない. “鳥類学者” が “鳥” を研究対象として利用したと同時に, “鳥” は “鳥類学者” を勝手に操作して利己的に利用した.ワタクシはその科学史的事実はもはや否定しようがないと思う.では,今後もこのような「相利共生」ないし「二重片利共生」が続くことが望ましいのか.それとも,科学哲学はふたたび大上段に構えることになるのか.



本書を読了したいま,もしワタクシが,伊勢田師と「対話」したとしたならば,いったいどのような展開になるのだろうかと夢想している.



三中信宏(2013年7月19日)



→「科学と科学哲学との重層的すれちがい(続)」(2013年7月20日