タリバン人質1名殺害、8名解放は中断
昨夜は情報が入り乱れていました。ネットで人質殺害が言われ、テレビでは8名解放が告げられ、確かなことがわからないまま一夜が明けました(※)。
今朝になって韓国外交通商部が人質1名の死亡(遺体の発見)を確認という報があり、またAP通信が伝えていた人質8名の解放の方も中断したと報道されています。
韓国人の解放 振り出しに戻る
アフガニスタン政府の交渉責任者がNHKの取材に明らかにしたところによりますと、現地時間の25日午後、タリバンとアフガニスタン政府の交渉がいったん合意に達し、韓国人8人が政府側に引き渡されることになりました。ところが、8人がタリバンに連れられて武装勢力の拠点から引き渡し場所に向かう途中、アフガニスタン政府の戦車などが周辺に配置されていたことから、タリバン側がみずからの安全が保障されていないと判断し、急きょ引き返したということです。この交渉責任者は「夜に入ったので、現在、8人の引き渡しについて交渉は行なわれていない」と話しており、8人の解放が振り出しに戻ったという見方を示しました。一方、ガズニ州のタリバンの拠点の近くで見つかった男性の遺体について、韓国外交通商省の報道官は26日午前6時前に記者会見し、遺体は連れ去られた韓国人のうちの1人だと確認したことを発表しましたが、氏名などは明らかにしませんでした。この事件で、タリバンの広報担当者は「韓国人ひとりを殺害した」と発表していました。
(NHKニュース)
殺害された1名については、韓国の報道でリーダー格のペ・ヒョンギュ牧師ではないかと言われているようです。一つ残念な結果になってしまいましたが、交渉はまだ継続させるとのタリバンの言明も伝えられていますので、最後まで一人でも多くの解放が為されるよう願っています。
(※:怒りをおさえて冷静に(中央日報社説))
サウジ戦
勝っている時には目立たない反省点が多くでてきたのかもしれません。これは大きな糧になる敗戦だったように思います。3位決定戦のあたりではきちんと修正できるところはして、せめて有終の美を飾りましょう。
(序盤からバックパスが多かったのには少し疑問が。終盤になっても、いえ疲れてからはなおさら多かったようにも感じました。優勝は逃したのですから、今度は「前がかり」でスタミナを考えず戦って欲しいです)
断絶
hobo_kingさんの「自分を許すのは一人では出来ない」を読んでかなり共感。たぶん私も似たことを考えていたことがあるからでしょう。
「価値」にしても「意味」にしても、個人が個人の側からだけの働きかけで決定できるものではありません。それらは外部に由来しつつ(あるいは個の側での選択でもあるという形を取って)「共有」されるものです。しかし「自分だけの価値」「自分だけの意味」も突き詰めていけば、必ずどこかで自分の枠をはみ出ることに気付くはず。大枠での価値や意味が与えられて私たちは人間になっているのですから*1。この「自分」さえ独りだけで創造したものでない以上、自分を最初からスタンド・アローンなものと考えること自体が「逆立ちした見方」だということは明らかでしょう。
ただ実際にはこの転倒は気付かれることが少なく、「自分」とか「自我」から始めていろいろなことが考えられたり語られたりしています。これが近代的自我の特徴だと私は考えます。そしてここに気付く者、気付いてしまう者は、その時点で何らかの意味で近代社会に不適応を起こしてしまっているのでしょう(かつての私を含めてそう思います)。
問題はかなり複雑なはずです。まず「自分」があって、「自分の選択」があって、そういう個が集まって社会を作っているという考え方に私たちは慣らされています。これは誰かが企んでいるというようなものではなくまさにそういう考え方が近代を支えてきたのですが、この「自分」というのは相当に人間にとってストレスフルなものでもあります。誰かじゃなく「自分」が選んで、「自分の責任」において状況を引き受けること。これに常に対応していくのはかなり辛いもの。時にほんの些細なことから、疲れきってそれについて行くことができなくなったりもするでしょう。
そしてそんなとき、ちょっと適応できなくなったときに私たちは近代とか近代的自我のほころびに気付くことがあるのだと思います。
たとえば「非モテ」なんていうのもその類のことでしょう。適応不全を起こしていない側からすれば何をぐちぐち言っているのかと、誰かがお前に来てくれないのならばお前から手を差し伸べればいいだけではないかと、服を変えろ髪形を変えろ清潔にしろ、下手な鉄砲も数打ちゃあたるんだし…と言うわけです。ところがおそらく「非モテ」の人が自称するときの「モテ」の意味は、不特定多数の異性からちやほやされるとか求愛されるという「モテる」イメージとは違っているのです。「非モテ」の人が(よくある意味で)「モテたい」=多くの異性から求愛などされたいと思っているようには全く見えません*2。かつてkanjinaiさんの「モテ論」考を最初に読んだ時の違和感もそこにあったように思います(G★RDIAS - モテとはひとりの女を大切にすることである(のブックマーク))。
それではこの「モテ」は何を意味しているのでしょう。私はそれを「他者から望まれる・欲求される」という一点を象徴的に表現していることだと考えます。それは大胆に「愛されること」を意味するというより、ささやかに「声を掛けられること」、できれば「望まれること」を求めている言葉だと感じるのです。
ところがその「望まれるということ」自体が「自分」の向こうからやってくるものなのです。どれだけ「自分」が努力しても、「望まれる」ように他者を仕向けることなどできない…そういう絶望感がここにはあるのだと思います。ここで垣間見えるのは、「自分で何とかしろ」という建前でできている社会の中で「自分の外からの意味づけ」が得られない、自分だけではどうすることもできないということに気付いた不幸せであって、やはり近代社会の矛盾の一つに出会ってしまっている苦しみなのではないでしょうか。
これは傍から見ていれば「乗り越え難い障壁」には見えません。それこそ「何とか工夫すれば何とかなるもんだよ」的な感想しか見えないものだと思います。でもこの部分に囚われてしまった人には大問題になっているのです。
ちょっと以前に増田で「セックスって汚いものなの?」というエントリーがありました。それをキレイ−汚いという評価の軸で見れば、セックスなど汚いとしかいえないものかもしれません。でも普通はセックスという主題を考えるときにキレイか汚いかという判断基準は前面に出てくるものではないはずです。ここでそれが出てきてしまうこと自体が一つの問題なのでしょう。躓いてしまったものでなければ問題の所在が分かり難いという構造、これが「非モテ」のケースに関してもあると私には思えます。そこには断絶が現れるのです。
問題だと思う者には大問題で、気に留めない者には問題でも何でもないというこういったテーマこそがやっかいなものです。でもそうしたものがあるということだけは気付いて欲しいですし、結構大きな意味として共有できる部分もあるんだということは考えていきたいと思っています。
(至らない内容ですが、このまま残しておくことに。意外に読んでいただいたようで感謝です。自分は年齢的にもモテが主題の生ではなくなってきていますが、なぜかこれに関してはずっと気になるものでした。夏の葬列をRSSでしばらく読んでみたり…。またいずれ何か書こうと思います)