
太平洋戦争中、米軍は最新の軍事情報を得るために日本兵を捕虜にしたかった。しかし、降伏を禁じられ、捕虜になるのは「恥辱」とされていた日本兵はなかなか投降しない。そこで米軍が展開した周到な情報戦とは? 一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』より「第二章 日本兵の精神」を特別公開します(全3回。第1回「日本兵の戦争観」はこちら)。
日本兵と投降
日本兵捕虜を獲得せよ
米軍のみた日本軍兵士たちはけっして超人などではなく、勝っていれば勇敢だが負けとなると怯えた。それにもかかわらず彼らの多くが死ぬまで戦ったのは、先に引用した米軍軍曹の回想にもあった通り、降伏を禁じられ、捕虜は恥辱とされていたからである。(→第1回参照)
しかし米軍側は最新の軍事情報を集めるためにも日本兵を捕虜にしたがっていた。そのため彼らは、まず自軍将兵に捕虜獲得の重要性を繰り返し説くことからはじめた。
IB(*)1943年7月号「日本兵捕虜」が「日本兵は投降するのか?」と問題提起する記事を載せたのは、「米軍はすでに数百人の日本兵を捕虜にしている……彼らは長く絶望的な抵抗の果てに補給を断たれ増援の見込みもなくなり、帝国陸軍が本当に無敵であるのかについて疑いを持ち始めた」、したがって「答えは明らかに『イエス』だ」と結論づけることで、読み手の自軍将兵に日本兵をもっと大勢捕虜にするよう奨励する意図があったからと思われる。
この「日本兵捕虜」は、「ガダルカナルでかなりの数の日本兵が日本語の放送と宣伝ビラにより投降した。放送は両軍の戦線が近接し、かつそれなりに安定しているときを見計らって行われた」と前線での投降勧告の様子を報じているのだが、意外なことに当の米軍兵士がこれを妨害したと述べている。
これに応え、日本側はまず一人を手を挙げて送り出した。もし彼が傷つけられなければ他の者も出てくる。しかし「すぐ撃ちたがる(Trigger-happy)」米兵が発砲すれば出てこなくなる。「撃ちたがる」米兵は前記のような状況のみならず、斥候に出ているときやその他「沈黙は金」とされているときにも盛大なへまをやらかすことがある(ガダルカナルで長期間を過ごしたある報道特派員が、下級将校や下士官兵に対するジャングル戦のアドバイスを求められ、開拓地のインディアンのように静寂を保つこと、ねずみを待ち受ける猫のように辛抱強くあることだ、と言った)。
このように米軍側にも日本兵をみたらとにかく「撃ちたがる」者がいて、それが日本兵の投降を妨げ、結果的に自軍の損害を増やす一因となっていたことがわかる。
ガダルカナルの米軍は、捕まえた日本軍「労務者」のうち志願した者を一人、二人と解放してジャングルに向かわせ、他の者を米軍の戦線まで連れて来させるという計画を実行した。彼らは役目を完全に果たして他の者を一週間以内に米軍戦線まで連れてきた。かくして捕らえられた「捕虜たちの反応」は次のようなものだった。
日本兵たちはおおむねよき捕虜である。彼らは厚遇に感謝し、実に協力的である。
ある日本の高級将校は米軍将校に日本語で話しかけられてもはじめは名前以外一切の情報を与えなかった。やがてアメリカの厚遇により信頼が生まれ、ためらいなく話すようになった。「拷問でも何でもやってみろ、何も話さないから」と彼は言ったものだ。「でも厚遇してくれるなら知りたいことは何でも話す」。
また、投降した日本軍の中尉は、退却する部隊の殿(しんがり)になれと命じられたことを明かした。「なんで俺が殿に?」と彼は問い返した。「他の奴らは逃げていったじゃないか、俺は貧乏くじを引くような間抜けにはならないぞ」。
ほぼすべての捕虜が、捕まれば殺されると思っていたと述べた。
数名の捕虜に「将校たちから米軍に虐殺されるぞと言われたか?」と聞いてみた。
全員が否定した。「いや、そんなことは全くない」と一人が応えた。「戦いの一過程としてそうなるだろうと思っていただけだ」。
兵のみならず将校のなかにも、自分への評価や待遇に不満があれば寝返る者がいた。よく日本軍将兵が投降をためらった理由に「米軍の虐待」が挙げられるが、捕虜たちはこれを明確に否定している。
先にも述べたように日本で「鬼畜米英」などの言葉が登場したのはガダルカナル敗退後に政府が国民の敵愾心昂揚のため、米軍兵士の残虐性を強調するキャンペーンを繰り広げてからの話である(前掲吉田裕『シリーズ日本近現代史(6) アジア・太平洋戦争』)。日本兵にとって「米軍の虐待」が降伏拒否の理由となったのはこれが効き出して以降のことかもしれない。