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2015年11月27日金曜日

僕らはチャットでゲームする地獄


80年代のはじめに古のホビーPCがビッグコマーシャルな市場に革新的な物として鳴り物入りで登場した時、いち早く手に入れた先見の明ある(非ホビイストの)大人達はそれを大抵は持て余してしまっていた。広告には無限の可能性がこのクリーム色をしたプラスチックの筐体に秘められていると謳われていたが、帯に短く襷に長しのそれで何かできたかといえば、好奇心旺盛でやや内気な息子の為の高級なおもちゃになるくらいしかなかったのだ。

時は流れて90年代の末頃、当初は海の物とも山の物とも知れなかったそれも既に大衆層へ明確な利用目的を示せていた。韓国や中国の若者達がPCで、あるいはインターネットで何をしたかったかと言えばチャットとゲームだった。当時のアジアにおけるネットカフェ(韓国で言うところのPC房)需要、若者達の欲求であり、後世の人が文化と称するだろうそれを支えた核はテキスティングとオンラインゲーム、あるいは入れ子構造であるその2つの要素が混じりあった物だった。オンラインゲームの中でもチャットはできるし、ポータルサイトと呼ばれるようなコミュニティの場を提供する総合サイトはチャットスペースやBBSからオンラインゲームへシームレスにユーザーを誘導した。

SayclubのSay Messenger
後にこれはTachyと改名される。
90年代後半、ICQやAIMを皮切りにして世界中でインスタントメッセンジャーサービスが現れたが、韓国にはSayclubというIM、チャットサービスが登場した。当時はPCベースのプラットフォームだったが、今日のwhatsappやLineなんかのご先祖様にあたる存在だ。既にMSN Messengerが普及していた韓国で、国産とはいえSayclubは後発ゆえに不利な立場からのスタートだったが、歴史的に見てそれは一つのエポックメイキングとなる。全ては彼らが初めて(韓国人はこの世界初みたいな謳い文句が本当に好きなのだ)導入したアバターシステムである。

Sayclubのアバター
韓国では個々のパーツを組み合わせるより、
一揃えでまとまったアバターセットの方が人気だった。
これは狡猾にユーザー心理を見抜いた悪魔的な発明だった。元々というか現在も多くのインスタントメッセンジャーは個々のユーザーが自由な画像をアップロードして自身のアイコンに設定する事ができる。それは自分の写真だったり、自分で描いた似顔絵だったり、アイドルや俳優のショットを拝借したものだったり様々だが、Sayclubの場合、識別子としてのアイコン(アバター)変更をユーザー側に全て開放せず、プラットフォーム内で販売する着せ替え衣装のみに強制した。

MSNなどに既に定住していたアーリーアダプター達はSayclubに批判的というより、嘲笑的だった。画像をアップロードして真に自由なカスタマイズが可能なIMがあるのに、なんでお金を払って制限の下で着せ替えごっこをする必要があるというのか?と…至極もっともだと僕も思ったが、その予想に反してアバター販売というビジネスモデルは大成功をおさめる。アーリーアダプター達がばかばかしいと表した制限が逆説的に無価値だったアイコンイメージ、デジタルデータに相応の価値を与えたのである。それは20世紀末に発明された新たな売り物であり、無価値だったデジタルデータに値札を貼る時代の到来であり、一本の線であった。



当初1000ウォンの期限付きデジタル衣装が果たして額面通りの価値を有しているか、それは誰にも分らなかったが、現実世界の高級衣服がすべての人に同じ価値を有していないように、粋も洒落もスタイルは後にやってくるものなのだ。事実として"廃"ソサエティのファッション競争は、競争が競争を呼んで加速し、彼らの着こなしは有識者が見ればその価値を概算できるようになっていたし、共有化された価値観はかつて無価値だった識別子イメージに社会的な信用を与えていた。例えばネットナンパ師達は信頼を得る為にデジタル空間の自分をそれなりに着飾っただろう、アバター程度にも金を回せないようなランニング短パン野郎が女性を釣れるワケはないのである。不思議に思うかもしれないが、現実の世界で会社の採用面接にランニングと短パンで赴く男がその後どうなるかなら誰もが想像できるだろう。

ハンゲームのデフォルトアバター
こんな格好をしたプレイヤーは一切の信用がないと言って過言でない。
そして先述の通り、テキスティングとゲームはその親和性の高さから融合していく。そっくりそのままアバターモデルはオンラインゲームポータルサイトに移植され、この商品はそこでも重要な収益の柱になった。この流れは韓国内にとどまらず、ゼロ年代の初めにハンゲームが日本に進出し大成功をおさめているが、その利益の大部分はやはりアバターである。

そんなポストアバター世界ならではのゲームといえば、2003年のF2P MMORPG メイプルストーリーだろう。装備を変更する事でキャラクターの見た目が変わるゲームなど以前より東西を問わずに掃いて捨てる程あったが、アバターの平易かつ平面的なピクセル調の見た目をそのままアートスタイルとして採用し、加えてアバターというテキスティング文化圏で既に成功していた豊富な装飾品をエグいマネタイジングに乗せて現金で売り払う感覚は同ジャンルの中でも他と一線を画していた。

メイプルストーリー
本作のテキスティング的な側面を端的に表した素晴らしいSSだ。
そしてこのメイプルストーリーというゲームは、なぜか日本を実験場に最終兵器を本国より先行して投入する。2004年遂にやってきたリアルマネーランダムボックス、いわゆるガチャである。2004年という年にガチャがメイプルストーリーというアバター文化(テキスティング圏に由来する価値観)を色濃く引き継いだタイトルと共に日本で産声をあげた事は示唆的である。

メイプルストーリーは一見して競争性の低いゲームである。豪華な見た目のアバターアイテムやEXPブーストなどの有料アイテムが山盛りに存在する一方で、ゲームの本質はAIの敵を延々倒し続けて、ただひたすら自分のレベルを上げるだけの極めてシンプルな賽の河原の石積みゲームであり、ゲームデザインとしてプレイヤー間の直接的な対立構造になっていない。例えば同時期にまた悪魔的課金オンラインゲームだと評されたドイツ生まれの長期的MMORTS トラビアンの場合はそれと真逆のデザインであり、プレイヤーは他のプレイヤーの村(陣地)を襲って、ぺんぺん草の一本も残らないレベルで略奪と破壊を行う超攻撃的ゲームである。

Travian
ポップであたたかみのある愛らしいヴィジュアルながら、
その地続きに無慈悲な破壊と略奪が存在する超侵略的ゲームだ。
トラビアンの課金メソッドはゲームデザインレベルで定義されたプレイヤー間対立によって生じる。略奪され荒れた領地を整え反撃に打って出る為に現金を払ったり、そもそも攻撃を受けても安全なように自陣の守りを固める為に金を払ったりするのだ。運営はさながら両陣営に兵器を売り、戦争で私腹を肥やす悪魔の武器商というわけだ。このpredator(捕食者)とfeeder(自らの身を餌にして与える人)という弱肉強食の構造そのものがユーザーの現金投入への導線になったモデルがF2P(Feeding to Predator)である。

ゼロサムゲームにリアルマネーを介入させるというトラビアンの極悪な収益モデルは個人的に支持したくないが、一方でそのシンプルなメカニズムは理解しやすくもあった。むしろ、ユーザー間対立がないはずのメイプルストーリーで何故人々は競うようにキャラクター(アバター)を飾り立て、ガチャガチャを回しまくっていたのか僕は当初、不思議でしょうがなかった。

モバゲータウン
新しい事はなにもないが、テキスティング、ゲーム、アバターと、
重要な要素をコンパクトにまとめたプラットフォームだった。
アバター登場の時と同様にしっくりこない僕を尻目に、2004年以降このガチャは様々なタイトル、プラットフォームに受け継がれていく。メイプルストーリーの成功をみてハンゲームはすぐさま自慢のアバターシステムにガチャ衣装を追加したし、また日本にGREEやモバゲー(タウン)が登場するのはちょうどこの時期で、アバターを中心としたテキスティングコミュニティにリアルマネーランダムボックスのアイデアをそのまま拝借した事は彼らの初期の成功である。日本の携帯電話は電話会社に支払う月額の利用料金にデジタルコンテンツの購入決済を乗せる事が出来るという、世界でも類を見ない財布直結のめちゃくちゃな仕組みが整備されていた事も相まってこの流れは今日のモバイル(デジタルコンテンツのマイクロトランザクション)市場の歪さに直接繋がっていく。

Mafia Wars
物騒なタイトルをしているが、
プレイヤー間の略奪はトラビアンなんかに比べると無に等しい
誰にもやさしい新しい時代の石積み型オンラインRPGだ。
ところでゼロ年代の後半に西側のSNSをプラットフォームにMob WarとかMobsterとかMafia Warsとかゴロツキをテーマにしたクエスト攻略型RPGがぼこぼこと登場する。これらは取り扱うテーマのイメージと反してプレイヤー間の略奪要素はデザインとして大胆に削りとられており、一部のリソースは取り合いが可能だが、それも極めて容易に自衛する事が出来るよう設計されている。このプレイヤー間の石の取り合い、崩し合いがない誰にも優しい石積み遊びとしてのRPGは西で定義されたソーシャルゲームというジャンルの一つの定番、王道となる。

誰にも優しい石積みRPGという低刺激オナホールのようなオンラインゲームは、広く日本で受け入れられ特殊な進化を遂げる。MyspaceやFacebookではこのジャンルは一辺倒にギャングがテーマになっていたが、日本ではゲームデザインをそのままにガワだけが変化した。まずギャングがスマートな怪盗になり、怪盗がコミカルなトレジャーハンターになり、トレジャーハンターは美少女アイドルになった。

国産Mob系RPGの(不誠実な)流れ図
ゲーム性据え置きでマフィアの抗争という血生臭いテーマは遂に愛らしい美少女達の競演になった。
日本のMob系RPGの特殊性は輸入され現地化する過程でキャラクタを軸に据えた事にある。国産のMob系RPGはゲーム内の恒久的資源と最終的な報酬(目標)が一定のライン上でキャラクタという要素に集約される。元のMob系RPGも象やゴリラを手に入れてそれに餌をあげて犯罪に勤しむという理解しがたい収集構造を部分的に有していたが、日本のMob系RPGはただのゴリラや象を丁寧に魅力的なキャラクタに置き換える。たとえば探検ドリランドはビックリマンのパチモンみたいなアートスタイルで、山ほどのキャラクタを描き、悪夢的な(ガチャガチャ)収集構造を完成させた、加えて、先述したように日本の携帯電話端末は顧客の財布に直結しているのでオリジナルを遥かに凌ぐスピードで黄金の集金構造が出来上がった。

Mafia WarsのSilver Elephant Bundle
Mob系亜流第一世代である怪盗ロワイヤルの時点では、
このリアル調な動物要素はそのまま残されていた。
キャラクタという器はアバターの代替モデルである。シンデレラガールズで前川みくを執拗に集める偏執狂プロデューサーがみくにゃんに自己を投影しているとはまず思えないが、ビジュアル系みたいな髪型をして悪魔の羽が生えたモバゲーのアバターもまた大抵は1対1の自己投影結果ではない。結局デジタルアバターとは着せ替え人形でしかないし、デジタルみくにゃんはコレクティヴフィギュアでしかない…がそれゆえに人はお金と時間を入れ込んだ、人間とは不完全で曖昧なのである。

みくにゃんに自己を投影する僕
ここで、いきなり本筋から外れた話になるが、ここまでも歴史的な観点から愚直に僕はMob系RPG、Mob系RPGと書いてきたものの、10年代の日本市場で実際に出回ったそれと、単語から連想されるイメージに著しい剥離が生じてしまっていた。ちょうど、そんな事を考えていた折に王道スマホRPGの頂点へというキャッチコピーが日本のお茶の間に響きわたったのは大変に感慨深い、テレビで言ってるのだから、僕も以降はこれらを王道スマホRPGと呼ぶ。


王道スマホRPGにプレイヤー間の略奪はない。ガチャで引いたみくにゃんは恒久的な資産であり、みくにゃんは時にバトルをするがみくにゃんのやり取りや破壊は行われない、かわりになぜか会社の備品であるステージ衣装という別レイヤーの資源が強奪される。キャラクタは王道スマホRPGの核であり、絶対に不可侵であり、安全と愛情のぬるま湯に浸かっている。王道スマホRPGのキャラクタはそのものがご褒美であり、クエスト実行ボタンを押したり、ひっぱって飛ばしたり、パズルをするのが楽しいから人はそれを遊ぶのではなく、かっこよかったり、かわいかったりするキャラクタの為に、そのキャラクタのお話を読む為に半ば仕方なくクエストボタンを押したり、ひっぱって飛ばしたり、パズルをする。手段と目的が入れ替わってしまえば、お金を入れるとキャラが出るガチャガチャはそのものがゲームになるのである。つまり王道スマホRPGがなぜしょっちゅうコラボするかと言えば異世界のキャラクタを無尽蔵に召喚しそんな歪なガチャゲームを拡充できるからである。

楽しいみくにゃん当てゲーム

ゲームとガチャは密接な関係にある。ゲームとは不可視の無作為な事象を意図を持って選択する行為そのものであるから当たり前なのだが、一方でキャラクタ(アバター)とゲームの関係性は危うくもある。一見それは矛盾しているし、舌の根が乾くより、木から散った桜の花びらが地面に着くより前に僕も親和性が高いと書いたばかりなのだけど、ゲームの勝ち筋とは強いキャラクター、強い装備、強い技、強い行動を選択するべきものであり、端的に言って可愛いとか、かっこいいという感覚を基準にすべきではない。

僕がWarcraft3で種族Orcを押して1v1がマッチしたら、最初のヒーローにブレイドマスターを選択するのは、僕がグリーンスキンでしか性的興奮を得られないオルクフィリアであるからではなく、BMがめちゃつよだし、僕が強キャラ厨だからである。強い行動をあえて選択しない事にある種の美学、崇高な精神を人は度々見出すが、ゼロサムゲームにおいて低い評価点行動を取ることは利敵行為に当たる。
Warcraft3のBlade Master
ぜんぜんかわいくないけど強い。
アバターはゲーム的な評価指標を時に狂わす。かっこいいキャラクタやかわいい装飾品が、比例した強さを伴なわない場合があるし、たとえ開発段階でデザイナーがかっこいいキャラクタに見合った強さを与えたとしても、リリースされプレイヤー間の研究が進んだ結果、実は最弱キャラだったと結論づけられる事はままある。ゲームデザインとは見えないひび割れの入った美しい金魚鉢の様であり、それに水を注いでみない限り、亀裂の位置は分からないのである。

一方でCounter StrikeにおいてCTのガンラウンドでM4ではなく、あえて下位互換のアサルトライフルであるFamasを購入するのが許されたのはスカンジナビア広しと言えどzneelだけだったが、それはzneelのFamasだけがアホみたいに強くてM4より総合的に高いパフォーマンスを示せていたからだし、同様にQMZの赤いジャギはQMZのレイよりも鋭利であったからそれらは揺ぎ無く正しいと結論づけられる。

Do the right thing
結局のところ競技ビデオゲームで一般に強くないとされる選択に正当性を与えるのは、個人の圧倒的な強さのみであり、ゆえにそういった人々を我々はフォリクラッセ(規格外の人)と呼ぶのである。しかし、今日の王道スマホRPGにはそもそも誰かを直接潰して勝つようなハードコアな対人戦ゲームは(マスレベルで)存在せず、あの悪名高い上位入賞報酬すら平行線上で行われる石積み競争に過ぎないし、そのレースに脱落したところで、あなたのキャラクタは愛想をつかして去っていったりはしない。キャラクタが全てのゲームである以上、これほど安心できる事はない。結局、強さの証明は大多数の王道を行く人々にとって意味をなさない。

売り上げベースでのモバイルゲーム市場規模図
人口に対して日本に住む人々がどれだけお金を突っ込んでいるか分かる
blahblahblahでめちゃくちゃな事を書いたけど、こういうのを引用すると
なんとなく記事が引き締まるだろうという浅ましい意図だ。
では、そういった狭義の対人戦ゲームでない王道スマホRPGで大多数の僕らは何をしているかと言えばチャットをしているのである。王道スマホRPGに登場するキャラクタの愛らしさを、尊さをTwitterでささやくのである、愛する人の肖像を描きRTしてもらうのである、抱き枕カバーにプリントして抱き合う様をvineで上げるのである、過去の我々と同じように、明日の我々がそうするように、愛を積み、愛の迷宮の中で道を見失い途方に暮れるのである。今、Twitter上で王道スマホRPGの話をしている人たちが一斉にOGameやTravianに鞍替えすれば、Twitter上の愛の囁きはそっくりそのまま恨みと憎しみの叫びに変わるかもしれない。ガチャガチャを回し、かけがえのない自身の青春という刹那を捧げる事が愛というのは、いささか倒錯的であるが、ただ地獄を進む者が悲しい記憶に勝つのである。

かつてのスマートフォンのように十数年後には今の僕たちが想像もできないような、革新的なデジタルデバイスが世に現れるかもしれない。しかし、その用途を僕たちはうっすらと分かっているような気がする、たぶんにそれはテキスティングとゲームなんだろうと。

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