Harris, John
ジョン・ハリス
「マンチェスター大学の応用倫理学の教授…。「生命の価値」(一九八五)と人体改造の問題を取り上げた「奇跡女とスーパーマン」という著書がある」(加藤尚武[1993:25])。
ウォーノック委員会のメンバーでもあった(川本隆史[1995a:103])
☆ 本務校による紹介
http://les1.man.ac.uk/law/staff/john_harris.htm
☆ 著書
1980
Violence & Responsibility. Routledge & Kegan Paul.
1985
The Value of Life: An Introduction to Medical Ethics. Routledge & Kegan Paul. [独訳あり]
1989に Routledge から再版
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1992
Wonderwoman and Superman: the Ethics of Human Biotechnology. Oxford University Press. [伊・西訳あり]
ISBN:0192177540 £17.95
1998a (with Charles Erin Rebecca Bennet)
AIDS: Ethics, Justice and European Policy. Published in book form as an official report of the European Commission.
ISBN: 92-828-2359-8.
1998b
Clones, Genes, and Immortality: Ethics and the Genetic Revolution. Oxford University Press.
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[上記「本務校による紹介」によると、Wonderwoman and Superman(1992)の完全改訂第二版だそうです]
☆ 編著
1988 (with Steven R. Hirsch)
Consent and the Incompetent Patient: Ethics, Law, and Medicine: Proceedings of a Meeting Held at the Royal Society of Medicine,
9 December 1986. Royal College of Psychiatrists.
1990 (with Anthony Dyson)
Experiments on Embryos. (Social Ethics and Policy Series) Routledge.
1994 (with Anthony Dyson)
Ethics and Biotechnology. (Social Ethics and Policy Series) Routledge.
1995 (with Nina Fletcher, Janet Holt, and Margaret Brazier)
Ethics, Law and Nursing. Manchester University Press.
1999 (with Soren Holm)
The Future of Human Reproduction: Ethics, Choice, and Regulation. (Issues in Biomedical Ethics)
Oxford University Press.
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2001
Bioethics. (Oxford Readings in Philosophy) Oxford University Press.
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http://www.oup.co.uk/isbn/0-19-875257-1
2002 (with Justine Burley)
A Companion to Genethics. (Blackwell Companions to Philosophy) Blackwell.
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☆ 論文の一部
◆1975 "Survival Lottery", Philosophy 50
◆1980 "The Survival Lottery", Violence and Responsibility
=1988 新田章訳,「臓器移植の必要性」,
加藤・飯田編[1988:167-184]
◆1983 "In Vitro Fertilization : The Ethical Issues",
The Philosophical Quarterly 33(132)
◆1987 QALYFYING THE VALUE OF LIFE
J MED ETHIC, V13, N3, P117-123.
◆1988 THE FOUNDATIONS OF BIOETHICS - ENGLEHARDT,HT
PHILOS REV, V97, N3, P440-442.
◆1989 TREAT ME RIGHT - KENNEDY,I
J MED ETHIC, V15, N1, P48-49.
◆1991 UNPRINCIPLED QALYS - A RESPONSE TO CUBBON
J MED ETHIC, V17, N4, P185-188.
(1)が成立しない場合、すなわちaをAからBに移動することができる場合には──先に述べたようにその頻繁な移動は有効でない場合はあるにしても──、aをAのもとに置くことが有利だとは言えない。このことは、移動によって有利になる者が不利になる者よりも多い状況を考える場合によりはっきりとする。ハリス(John Harris)が「サバイバル・ロッタリー survival lottery」をもってきて論じているのはそういう場面である◆21。
「すべての人に一種の抽選番号(ロッタリー・ナンバー)を与えておく。医師が臓器移植をすれば助かる二、三人の瀕死の人をかかえているのに、適当な臓器が「自然」死によっては入手できない場合には、医師はいつでもセントラル・コンピューターに適当な臓器移植提供者の供給を依頼することができる。するとコンピューターはアト・ランダムに一人の適当な提供者のナンバーをはじき出し、選ばれた者は他の二人ないし、それ以上の者の生命を救うべく殺される。」(Harris[1980=1988:170])
例えば一人の健康人Aの心臓と肝臓を取り出し、それを心臓移植と肝臓移植によって救われる二人の患者Y・Zに移植するならば、二人の生と一人の死が帰結する(図2・9)。これを行わないなら、一人の生と二人の死である(図2・8)。最大多数の最大幸福という観点からは、前者が選ばれることになる。どのような配分の初期値も前提せず、各状態から得られる各々の幸福の総量を基準として、その総量が最大であるものを良しとする「正しい」功利主義に立てばこうなる。◆22
このように述べた後、ハリスは、予想される反論、また実際に寄せられた反論に答えていく。「Xの個性が尊重されるべきである」という主張には、しかしY・Zの個性も尊重されるべきだろうとハリスは言う。これが神を演じることになるという指摘には、「われわれに物事を変える能力がある時には、物事を変えないという選択をすることもまた、世界に何がこれから生じるかを決定すること」(Harris[1980=1988:172])であり、Y・Zを死ぬに任せることも神を演じていることに変わりはないとする。
また、Xを殺すことは確実に殺す行為だが、Yを死ぬに任せるのは多分Yが死ぬことになるように振る舞うことだから前者は許容されないという、死がもたらされる確実性を論拠にする議論には、それは事実問題であり、Yにしても放置すれば必ず死ぬ場合があるだろうと応ずる。以上についてはその通りと言う他ない。
ただハリスは以上の立場をどこまでも通していくわけではない。籤引きによって臓器を配分するのでは、人々は健康を維持しようとする(例えば肝臓のために大酒を飲まないようにする)努力を怠ることになり、結果として健康な臓器の数が減ってしまうという理由によって、籤に参加する範囲を縮小すべきであるとするのである。
こうしてハリスは、臓器移植という技術について考えることによって、機能主義者によって自明とされ、考慮されることのなかった論点を辿った。従来、身体(内の器官)の移動は想定されることがなかったのだが、免疫抑制剤の登場が(1)の条件をある程度は解除してしまった。だからといって(通常であれば)移動、交換は行われない。しかしハリスは、このようにして、各自の臓器が各自に置かれたままであることが利益となるかと問い、否定的な結論を導くのである。ただ最後に(3)資源の増減に対する顧慮という条件が考慮され、各自に臓器=資源を保有させないと各自が資源に対する配慮を行おうとする動機を欠いてしまうために、サバイバル・ロッタリーが行われる範囲が制限されるというのである。ただ先に述べたように、(3)の条件が常にそれほど強く働くとは考えられない。また、政策的・技術的な工夫によって、各人が(とりあえずその人に与えられた)資源(臓器)に対する管理を怠らないようにすることも可能かもしれない。とすれば、やはりサバイバル・ロッタリーは有効なのである◆23。
以上は、私に与えられている資源(身体…)が私のもとに置かれることが功利主義によっては正当化できないことを意味する。しかもここでは、私達が功利主義に対して通常感ずる大きな問題点、すなわち個々の幸福の比較、個々人の幸福に対する貢献度の比較は行われていない。例えば社会の幸福の増進に有益な人間のために無益な人間を犠牲にしてよいのかという批判は当てはまらないのである。そして、ここで譲渡・移動が行われない(したがってより「有利」な状態が実現されない)のは、譲渡・移動が実際に可能でないという「事実」に(だけ)依拠していることを再確認しておきたい。しかも、この「事実」は技術によって既に部分的には覆されてしまっている。
このことは、もし私達がサバイバル・ロッタリーを認めないなら、そして私の身体は私のものであることを前提として立てるのでなければ、認めないその理由を以上見たものと別に用意しなければならないことを示している。
そして、ハリス自身の立場はともかく、私は、この問題の本質が「最大多数の(最大)幸福」という功利主義の原理を認めるか否かにあると考えない。図を変更し、〇と×の数をそれぞれ一つずつとしよう。図2・9が図2・8より功利主義の観点から有利だとは言えなくなるだろう。しかし図2・8を採用し図2・9を採らないとすればそれはなぜか。「生存権」だろうか。しかし内臓に単なる(しかし致死的な)疾患がある者にもそうでない人と同じく「生存権」があると言えないか。そしてそれは「平等の原理」でもない。「平等」を単なる均等配分とすれば、そもそもここでは分割が不可能だ。三人が三分の二ずつ生きていることはできない。これは誰もが同じだけという帰結がそもそも不可能な状況なのだ。それにしても一死二生より一生二死の方が平等で公平だと言えるか。これも言えないだろう。また右に見た一生一死と一死一生の場合にも、平等の原則は何も言わない、言えないだろう◆24。」(立岩
『私的所有論』第2章より)
以下は引用部分の原文
“They propose that everyone be given a sort of lottery number. Whenever doctors have two or more dying patients who could be saved by transplants, and no suitable organs have come to hand through ‘natural’ deaths, they can ask a central computer to supply a suitable donor. The computer (052) will then pick the number of a suitable donor at random and he will be killed so that the lives of two or more may be saved.” (Harris 1980:69=1988:170)
■言及
◆立岩 真也・有馬 斉 2012/10/**
『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院
◆立岩 真也 2004
『自由の平等』,岩波書店
「☆17「生存くじ」はHarris[1980=1988]で提出され、[1997:52-55]で検討した。また森村[1995:29-33]が取り上げている。愛敬の論文の中でCohen[1995:70]を参照しあげられている「眼球くじ」と同様の例はパーフィット(Derek Parfit)の未公刊の論文を参考にして森村[1995:31-33]で論じられている。他に[1997:65](注24)に引用した大川[1993]に同様の問題への言及がある。森村は「自己所有権テーゼの説得力」を示すためにこれらの例を持ち出し、愛敬はその説得力を否定する。
くじは認められないという直観自体を否定する人がいるかもしれない。眼球もまた分配されてよいというようにである。ハリスはもっと過激な例でほとんどそこまで行くが、この場面ではあまり重要と思えない理由──第3節3にあげた機能的な理由──で、引き返す([1997:54])。
私にとってこの問いは次のような意味をもっていた。[…]」(立岩[2004:302])
◆
堀田 義太郎 20090310
「出生選択の倫理学――ジョンハリス「障害学の一つの原理と三つの誤謬」(2001)をめぐって」出生をめぐる倫理研究会編
『出生をめぐる倫理研究会 2008年度年次報告書』, 81-93.
◆須長 一幸 20020331「すべての新生児に可能な限りの治療を与えるべきか否か」玉井真理子編『重症新生児の治療停止および制限に関する倫理的・法的・社会的・心理的問題』
http://square.umin.ac.jp/~mtamai/NEONATE/Davis&Harris.htm
*作成: 更新:
安部 彰