Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
HOME > WHO >

三井 絹子

みつい・きぬこ





・1945〜
・(旧姓:新田)東京都国立市


◆三井 絹子 20060520 『抵抗の証 私は人形じゃない』,「三井絹子60年のあゆみ」編集委員会ライフステーションワンステップかたつむり,発売:千書房,299p. ISBN-10: 4787300466 ISBN-13: 978-4787300461 2100 [amazon][kinokuniya][JUNKDO] ※ d i05 i051970 b02.

第1章 シルクロードは絹の道
 その日から私の人生は決まった
 父の死そして…
 施設入所
第2章 闘いの中の愛…苦しみと楽しさ
 きぬとの出会い
 平太とのこと…
 遠足中止
 たたかいのながれ
 キヌのうごき
第3章 人間として生きたい、何も怖くない時代
 すわりこみ宣言
 有志グループ ほか
第4章 差別しない子、させない子に…(私の子育て)
第5章 現在・過去・未来・楽しく生きたい
 57年間
 花も嵐も踏みこえて
 かたつむりを振り返って

 *販売委託を受けています。お送りすることできます。→お送りできる本
  冊子『私のいた施設の実態』(500円)/『それでも地域に生きつづける』(500円)もいっしょにお送りできます。
◇cf.府中療育センター闘争関連の新聞・雑誌記事
 http://www.arsvi.com/1900/7000.htm

  
>TOP

以下、転送

 1970年から府中療育センター闘争を闘い、70年代中頃から自立生活運動や出産、子育てを経験してきた三井(旧姓は新田)絹子さんがこのたび『私は人形じゃない』を千書房から出版され、5月20日(土)に出版記念の講演会を開かれます。ご多忙とは存じますが、お知り合いなどもお誘いあわせの上、ぜひお越し下さい。

------------------------------------------------
三井絹子出版記念講演会

日時 5月20日(土) 12時開場 13時開演

第一部 三井絹子講演会「私は人形じゃない」
第二部 「行きたくない」体験劇

*本の販売は休憩中や終了後に行います。

場所 国立市福祉会館4階大ホール
http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/~fukushi/04fukushi/041_kourei/041/041401_fukushikaikan.html#03

お問い合わせ:
「私は人形じゃない」三井絹子著 出版記念実行委員会
042-571-3520
----------------------------------------------


 
>TOP

・194505 生([3])
・三井俊明 19480914東京都渋谷区生([237])
◇19721117 「わたしたちは人形じゃない――新田絹子さんの手記」
 『朝日ジャーナル』1972.11.17
 http://www.arsvi.com/1900/7211nk.htm
・1965 町田荘入所
・19681013 府中療育センター入所([134]) ハンスト
・1972 座り込み
・1975 施設から出る


◇19721117 「わたしたちは人形じゃない――新田絹子さんの手記」
 『朝日ジャーナル』1972.11.17
 http://www.arsvi.com/1900/7211nk.htm
◇『私のいた施設の実態』
◇『それでも地域に生きつづける――「障害者」が子どもを産むとき』編集委員会 編 19791111
 『それでも地域に生きつづける――「障害者」が子どもを産むとき』
 くにたち・かたつむりの会,62p. 500
◇三井 絹子 1980 「地域で子どもを産み育てる障害者」
 『季刊福祉労働』7:88-95
◇三井 絹子 19840310 「かたつむりの家」
 『CIL.Sニュース』2:6

・『それでも地域に生きつづける』:5-8, 44-48
・『女性「障害者」の差別への怒り』 (生きる会ニュース特別号) :4-5
・『生きているって言えますか』:61-72
・『自立生活 ETCETRA』:39-40

・インタビュー(立岩他) 1987.2.16(かたつむりの会)

府中療育センター闘争関連の新聞・雑誌記事
 http://www.arsvi.com/1900/7000.htm

■言及

◆立岩 真也 2010/10/01 「「社会モデル」・2――連載 59」,『現代思想』38-(2010-10): 資料

◆立岩 真也 2010/08/16 『人間の条件――そんなものない』,理論社,よりみちパン!セ,392p. ISBN-10: 4652078552 ISBN-13: 978-4652078556 1500+ [amazon][kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2007/09/25「『私は人形じゃない』」(医療と社会ブックガイド・75),『看護教育』48-09(2007-09):-(医学書院)

立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙 立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙

◆立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社,481p. ISBN-10: 4791771192 ISBN-13: 978-4791771196 [honto][amazon][kinokuniya] ※

 「★13 身体に触れられること、見られることがある。排泄のことがある。介助の場面における性的な契機、また性的な行為の介助のことがある。『セクシュアリティの障害学』(倉本編[2005])に収録されている、草山[2005]、前田[2005]。また前田[2009]に関連する記述・分析がある。  『人間の条件』([201008→201805:51-58]、�T「できなくてなんだ」の6「他人がいてしまうこと」)では、自分が暮らしていた施設の看護婦長(今なら看護師長と言うのだろう)に男性によるトイレ介助について「男女の区別を乗り越えるのが本当だ」と言われ、「だったらなぜ、現在男のトイレと女のトイレを別にしてあるんですか」と抗議した三井絹子の手紙のこと(三井[2006]に収録)、「動かない手足が現実なのだから、自分のお尻を堂々と他人に預けるというのが、私たちの自立となるのだ。[…]プライベートとか個人のテリトリーとかいう考え方は、障害をもった人の現実にはまるで役に立たない考え方であり、ときには害をもたらしさえする」(安積[2010])という安積遊歩の文章を引いた。二人が言ういずれもがもっともなことであるはずだ。そのことをどう言うかということになる。いくらかのことはその本のその箇所で述べている。さらに本書381頁でもう一度引いている。△061」

 「★03 三井絹子の一九七一年の「婦長への抗議」という府中療育センターのN婦長への手紙から。
 「[…]Nさんは「親しくしている人なら、男の人でもトイレをやってもらっても、いいじゃないか。」と言いましたね。[…]Nさんは男女の区別を乗り越えるのが本当だと言いましたね。だったらなぜ、現在男のトイレと女のトイレを別々にしてあるんですか。」(三井[2006:101])
 他方、安積遊歩(戸籍名が安積純子)――安積は私たちが三井への聞き取りができるように差配してくれた人でもある(そうした一連の調査が安積他[1995][2012]になった)――は次のように記す。
 「動かない手足が現実なのだから、自分のお尻を堂々と他人に預けるというのが、私たちの自立となるのだ。[…]
 プライベートとか個人のテリトリーとかいう考え方は、障害をもった人の現実にはまるで役に立たない考え方であり、ときには害をもたらしさえする」(安積[2010])
 両者は矛盾しているわけではない。問題はここでも、「気にするな」といった言葉がどういう状況で、何を期待して(何を効果するものとして)発せられるかである。前者では、つまりはごく単純なことで、本人が気にしなければ(気にしないようにさせれば)面倒でない、から気にしないようにと言われている。」

◆立岩 真也 2018/12/15 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※

 「一つ、白木〔博次〕においても他の人々においても、府中療育センターであったできごとのことは書かれない。白木や椿は学生から突き上げられた苦渋は語る。他方看護師の人たちは、「難病」の方にいて、騒ぎを起こした学生に直接に対したわけでなく、その経験はないから書かない。それは当然だ。だが「府中療育センター闘争」と呼ばれるものは実在した。そこについてこの騒ぎを起こした人たちの書いたものなく、それはよくないと思ったので私は一九九〇年に短く記した。その時にあげた文献、またそれ以後あげた廣野俊輔の論文はここではあげない★★。ただ、NHKが二〇一五年に関係者の幾人かにインタビューをしている★29。そして(『現代思想』連載でこの辺りを書いていた)二〇一八年七月一日に三井絹子とその夫の俊明が多摩市で講演をした(三井[2018])。
 それは施設をつぶせといった勇ましい運動ではない。まずは(少なくとも私はよくわかっていなかったことだが)「重心」の部分を残して「重度」の部分を移転させようという計画に反対する運動であり、そこから始まった運動だった。七〇年十二月十四日の『朝日新聞』に「重度障害者も人間です」。三井△254 (当時は新田)絹子の手記(新田[1972])が『朝日ジャーナル』に掲載されるのが七二年十一月十一日。白木の任期は六八年四月から七〇年六月まで(副院長は大島)、「重心」を規定する基準としての「大島分類」でその名が業界に残っている大島一良(一九二一〜九八)が七二年四月まで(森山[2004:108])。『朝日新聞』の記事が載った時には白木は院長を辞めていて、新田の手記が出た時には大島も辞めている。ただ、七三年十二月五日の『朝日新聞』に「白木教授との公開討論会を 府中センターの療養者」、十二月二八日の同じ新聞に「身障者ら越年座り込み 都庁前 白木元院長の退任要求」と、この時点で白木はこの問題から逃れられてはいない。
 その白木が社会の危機を語り、未来を展望し、東京都における具体的な体制を構想するという大きな話をしている文章――さきに長く引用した――は『都政』という名の雑誌に掲載された「美濃部都政下における医療の現状と将来像」(白木[1971])という第の文章だ。ここには何も書いてない。その二年後『ジュリスト臨時増刊』に掲載された 「自治体(東京都を中心に)の医療行政の基本的背景」にも事件についての言及はない。ただその終わりは、「客観的にみて、できるかぎりの正確な認識に立つ今後の見通しのなかで、また毀誉褒貶のあらしのなかで、身を見失うことなく、忍耐強い実践行動への発条となりうるものがなにかをのべたつもりである。したがって、それは、筆者自身のものであり、読者諸賢に押しつけるつもりはない。」(白木[1973c:247-248])となっている。闘争・騒動に具体的にはまったくふれられていないが、事態は少なくとも知られているということだ。
 そして府中の同じ敷地にあったという病院や研究所にいた木下や川村の著書や編書のたいがいにあたったつもりだが★30、そこにもやはりでてこない。木下や川村は施設としては(3)が関わる「難病」の方が専門で、(1)の「重心」にも「重度」にもあまり関わりがなかったという説明も可能ではあろう。ただ、同じ敷地にあった施設で起こり、報道もされたできごとである。だが、出てこない。ただ一箇所、『難△255 病患者とともに』(川村・木下・山手編[1975])のなかに、六八年の暮れ、「美濃部都知事は療育センターを視察し、センターを終生の収容施設とみなすのは不適当であり再検討を要すること、少なくとも重度関係は早急に分けるべきこと、を指摘した。このような指摘に基づいて、療育センターのありかたについての検討が活発に始められた」(中島[1975:68])という文章だけはあった。先に記したように、発足の経緯として、当初予定になかった「重度」の部分が加わったことが、この時点で既に問題になり、切り離す(移転する)計画があったこと(だけ)が記されているということである。切り離し(人里離れた施設への移転)に反対する運動にはふれないが、切り離しが――書かれている限りで理由は判然とはしないが――必要でありそれが開設の当初から、つまり反対運動の前から正当なこととされていたことは書かれているという文章になっている。
 問題は「重度」の部分に起こった。そこにいた人に文句を言える人がいて、処遇――私も記したことがある、普段の生活の、入浴や用便や外出等に関わる処遇――に対する批判がなされた。(当時は丸の内にあった)都庁の前でのテントを張った闘争があって、都の役職者はやがて出てくるが――院長他は出てこない。今年の七月一日の講演会より。三井絹子が講演者だが、夫の俊明も話している。

 ▼絹子:院長は次々と。実験が済むと次の新しい人になり、また来てまた実験をして新しい人になるって感じで、次々と替わっていました。私たちはモルモットでしかない存在でした。院長が替わったところで私は何の変化も感じなかったです。
 俊明:[…]たとえば白木博次っていう東大の教授で、その人が院長になったことがありますけれども、その人のレポートを見るとですね、「なんでこんなに役に立たない人間にたくさん金をかけるんだ」みたいなことを書いています。だけどそんな人間がですね、水俣病の研究みたいなところでは△256 良い医者というふうに見られたりっていうことがあったりしました。(三井[2018])★31▲

 きっと院長たちに自ら実験する時間的他の余裕はなかったと思う。また、さきに見たように、役に立たない人間に金を「かけるべき」だと(かけるための根拠他を追究するべきだと)白木は言っているのでもあった。ただ、そこに住んでいて抗議した人(絹子たち)、それを支援した人(俊明たち)はいま引用したように思った、そしてそれから五〇年を経た今も思っているのが事実だ。白木には忌まわしい学園闘争の記憶があり、このセンター闘争に幾つかの党派が関わったことも一方の事実ではあり、面したくない気持ちはわからないでもない。ただ、構想され建設された施設の中でのことは、ないかのごとくにされ、別の立派な実践や構想が語られたのである。
 もう一つ、私がもっと大切だと考えるのは、[…]」

 「★31 「俊明:東大の夜間シンポジウムという所に、「府中療育センターの告発」っていうのが三井絹子の日記を含めて、出たのが初めてです。そういうようなことで、電動の仮名タイプが命を救ってきたというのはあるかと思います。」(三井[2018])府中療育センターでの闘争に東京大学での争いが関係しているのかどうか現時点で確認できていないが、すくなくとも闘争のことが東京大学で報告されたことはあったということだ。俊明は次のようにも言う。  「私がこの人に面会しに行きます。そうすると、日頃面会する人がいないもんですから、私と絹〔三井絹子〕の間に障害持った人がたくさん並ぶんです。私も話したい、私も話したいみたいなことになっていって、その人たちを中心にして、府中療育センターの移転阻止闘争有志グループっていうのを作ったりなんかしたんです。そういうものに参加した障害を持った人たち、見せしめだと思いますが、御蔵島という伊豆七島の一つの島に返されて、一年くらい帰ってこなかったかね? この人もそうですけれど、親が見るのが大変な状態にもかかわらず、また親というか親族の所に返されるんですよね。結局、日野療護園でその人は亡くなっていきましたけれど。卑劣なやり方をすごくやっていましたよね。それで、「共に寄りそって五〇年」〔センターのHPにそう記されている〕なんていうと、いま持っているマイクを投げつけたいくらいの気持ちがあるんだよね。ちゃんとね、そういう過去の歴史もきちっと反省して書いた上で言うんだったら話は別なんだけど、まるでなんにも無かったがごとくに、よい施設ですみたいな感じで表現されても、そんなことはしませんけど、火をつけて燃やしたいくらいですね。そのくらいの怒りは感じるところはありますよ。[…]なんて言うんだろう、小さな怒りでも、やっぱり諦めないでぶつけて行くことがけっこう必要なんではないかって思う部分がありますね。」(三井[2018])
 編書に新田編[2009]。私との対談(新田勲・立岩真也[2009])も収録されている。著書に『愛雪』(新田[2012])。新田に就いて調べた博士論文がもとになった本に深田耕一郎[2013]。」


UP:200605 REV:0616 20070731, 0813, 20181201
脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ  ◇府中療育センター闘争  ◇ワンステップかたつむり  ◇病者障害者運動史研究  ◇WHO  ◇障害者(の運動)史  ◇障害者(の運動)史・人  ◇『病者障害者の戦後――生政治史点描』  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)