上記の6人の方々のお過ごしになった年代です。表は生存されたアバウトの期間になります。
白河天皇と鳥羽天皇の間には、堀河天皇 (1079〜1107年) 29歳 が存在します。
白河法皇に取りまして、堀河帝は直系の息子さん、鳥羽帝は直系のお孫さんになります。 |
時代 (とき) は、摂関政治が終わりを告げ、「院政」 が始まった頃合い。
「実質権力者」 が、帝の 「お父さん」 には変わりがないのですが、
異なるのは、摂関 ⇒ 「義父」 で、院政 ⇒ 「実父」 に基本的にはなる事です。
当時の関白、藤原忠実 (1078〜1162) 85歳 が
1107年、堀河帝が逝去された後、諒闇践祚 (りょうあんせんそ)
をせず、next天皇を白河上皇にお聞きして以後、(摂関、藤原家は決定権を放棄したことになります。)
「治天の君 (上皇)」 が次の天皇を決定できるシステムになりました。 |
♥ 赤い糸と紫の糸が織りなすハーモニー |
布の織り目を解きほぐす前に、是非とも確認しておかなければなりません。
日本の古代は、女性と男性のお付き合いは、「とても、おおらか」 だった模様です。
色んな文献で、その関係を思わせる箇所が確認できます。
わたくしどもは、「美夜受比売と日本武尊」 感じのお二人のあっけらかんとした 「会話」 を紹介しました。
又、現在は、法律より規制されていますが、女性も男性も複数の方々と婚姻 ・重婚が可能でした。
但し、権威有る女性に対し、男性は経済的基盤を以てして全ての女性の生活背景を見る事が条件です。
(逆に、女性の方々がより経済的基盤に恵まれているケースが時代を遡るにしたがい有りました。)
その事は、「妻問い婚」 の制度で伺えます。詳しい事は、「妻問い婚(通い婚)とキャリア」 でご覧下さい。 |
それでは、いよいよ本題に。
白河法皇は、とてもラッキーでお元気なお方でした。
歴史の教科書で必ず登場されます。「院政の始まり」と。
この出来事は、当然、彼お一人でなし得た事柄ではありません。
自然、偶然、混然、及び、彼の持ち前のパワー?で出来上がった趣きも多々あります。
それらについては、「摂関政治時代から院政政治時代になるきっかけを作った女性達」 でご覧下さい。
白河法皇のお気持ちが通じなかったのは、
1 賀茂川の氾濫 2 サイコロの目 3 山門の僧兵 (比叡山延暦寺の恫喝) だけでした?
それ以外は、「意のまま」。ここでは、彼の晩年、白河法皇時代 (1096〜) の展開です。
法皇がお付き合いされた女性は数多 (あまた) いらっしゃると思いますが、
特に、お気持ちの入れ様が凄かったお方は 「祇園女御」 さんだったとの事です。
真偽は不明ですが、武家政権の走り 「平清盛」 が、お二人のお子さんであったと云う話もございます。
それはさて置き、ここで、♥藤原璋子 (後の待賢門院)♥ さんのお出ましを願います。
彼女の母は、乳母 (めのと) 平安キャリアの藤原光子さんです。光子さんの事は、「乳母」 で。
又、彼女の父は、藤原公実 (きんざね) (1053〜1107) 55歳
鳥羽天皇の 「摂政」 を白河法皇にお強請 (ねだ) りされた方で、三条 ・西園寺 ・徳大寺家の祖になります。
彼は1107年に他界してますので、お嬢さんの璋子は、僅か7歳で父を亡くした事になります。
お母さんの光子さんはバリバリの女房キャリアでした。堀河天皇の教育係をなさり、鳥羽天皇にも。
当時お勤めは住み込みですので、お嬢さんの璋子さんは禁裏 (宮中) が生活空間でした。
よちよち歩きの頃から目に飛び込んでくる光景は、それはそれは絵にも描けない?美しさ。
璋子さんの日常はその様な感じであったのでしょう。
一方、「大人の世界」、堀河帝の父、白河法皇は祇園女御と仲睦まじい素敵な日々。
宮中を飛び回るあどけない・物怖じ等せず・かわゆい璋子お嬢ちゃんがその祇園女御さんの目に止まりました。
祇園女御さんは、「彼女を何時の日か、鳥羽帝のお后に。」 と目論見、ご自分の猶子にされてしまったのです。
「」の推論は、永井道子さんです。(「悪霊列伝」 から)
この時代、親権なんて有って無かった様な風情?
しかしながら、親御さん達は、ご自分のお子さんに決して愛がなかった訳ではありません。
とてもクール (with 慈愛) で個々の生き方・自己存在をとっても大事にされたのだと考えます。
祇園女御の側にいる璋子さんは、毎日のように通ってこられる白河法皇には嫌がおうにも目に入ります。
女性に関しても、百戦錬磨の白河法皇お爺ちゃんは、やがて彼女の愛くるしさに絆されご自分の猶子に。
未だ、「酸いも甘いも」 判らぬ璋子お嬢ちゃんは、「我が侭」 放題させてくれる白河法皇お爺ちゃんに首っ丈。
大東亜戦争後の経済政策により離ればなれにされてしまった、このお爺ちゃん・お婆ちゃんとお孫ちゃん達。
お子様達には、今はとても味わう事のでき得ない?素敵で・お洒落な時空間。ちょいと可愛そう???
しかしここでは、然(さ)に非ず。お爺ちゃん・お婆ちゃんが目に入れても痛くなく、子供にとっては甘美な世界。
ここに、♥ お二人の追幻想 ♥ の世界が広がり始めるのです。(「追幻想」 はこちらで確認下さい。) |
♥ 摂関家の衰退と院政の立ち上げ |
ここで、璋子さんが 「大人の女性」 になられる時間を要しますので時間経過の為に。
藤原道長さんが確立された 「摂関政治」 を担っていた筈の 「摂関家」 はと云うと、
彼以後、精彩を欠きながらも 藤原頼通 ⇒ 教通 ⇒ 師実 ⇒ 師通 ⇒ 忠実 としっかり繋いでいました。
この時代 (とき) は藤原忠実が何とか、過去の摂関家の栄光を取り戻そうと汗をかいておられました。
そして、彼のお嬢さんが藤原泰子さんになります。後にやや年を重ねながらも鳥羽天皇のお后になられた方。
藤原忠実の父、師通死後、忠実と白河法皇はとても反りが合わなかった感じです。 利害不一致関係同士。
忠実の長男、藤原忠通 (1097〜1164) 68歳 は泰子さんと同母になり、後の五摂家の祖になる方です。
白河法皇は摂関家の経済的基盤である農地 (荘園) の新規立ち上げ停止など規制に手を付け、
更に、国家最高意思決定機関に所属する公卿 (高級官僚) の半分以上を藤原道長がかわいがり、
彼の息子、頼通の猶子になった源師房の末裔一派 (村上源氏) で占めさせました。村上源氏はこの世の春。
そんなこんなも結果論ですが、藤原頼通以降、お嬢さん達が 「男の子」 を世に送り出せなかった事が因です。
この例からも 「♥ 女性 ♥」 がどれだけ凄いものかをいとも簡単に理解できます。
村上源氏が廟堂の大半を占拠できたのも、源師房の次男、顕房 (1037〜1094) 58歳 の賢子お嬢さんが
白河天皇に嫁ぎ、堀河天皇をお産みになられた事に他有りません。 ♥ 藤原賢子 (1057〜1084) 28歳
白河天皇と賢子さんとはとても仲がよろしかった感じです。彼女は若干28歳で他界しますが、
彼女が病気になっても白河天皇は 「宮中」 にて看護し、「宮中」 にて逝去させています。
それ迄の慣例は、奥様が体調を崩した際は里下がり、況(ま)して宮中での逝去事例は存在しませんでした。
これらの 「掟破り」 を白河天皇は貫徹されたのです。何とお優しい事とお思いになりませんか?
白河天皇にまつわる、超ー華やかな女性関係はこれ以降の事に相なるのです。
*村上源氏で平安後期に活躍された源通親は 「藤原(高倉)範子と源通親」 でご覧下さい。 |
♥ 藤原璋子 (後の待賢門院) 白河法皇 ♥ |
やがて、幼く愛くるしい璋子さんは、晴れて、見目麗しい女性に変貌を遂げます。
彼女と白河法皇とは、およそ100年前の 「紫の上と光源氏」 を思わせるリレーションシップ (relationship)。
紫式部さんは源氏物語において、この関係を揶揄気味に文学してますが、現実は小説よりも奇なりです。
どちらかと云うと、式部さんはみやびでおおらかな平安の世で過ごされたにも関わらず、
事、女性と男性のお付き合いに対する考え方は斬新で「現代風?」であったのやも知れません?
乃至 (ないし) は、現情況アンチテーゼ (antithese) 戦略で源氏物語を記され、
先進的な 「もののあわれ」 を提示されたかも知れません。はたまた彼女が奥手だったやも? (失礼。)
それはさて置き、何の生活の憂いもなく、奔放に育てられた璋子さん。
こんな彼女を世の素敵な男性はほっときませんし、彼女もアクティブ (active) です。
なにせ、「恋の手ほどき」 は、大々大先輩の白河法皇と手練手管の祇園女御さんですもの。
人様の 「恋路」 を詮索するのは、とっても野暮ってもんですが、思わずここでは野暮に。
藤原忠実の日記 「殿暦」 に記載されている固有名詞 (人名) を根拠に
鬼才、角田文衛氏は著書 「椒庭 (しょうてい) 秘抄」 で璋子さんを取り巻く男性を特定されています。
とにかく、彼女はもてもての趣き様子。それら錯綜する男性関係は世の噂になったとも。
一方、この間の政治的な動きは、后コースで育てられた摂関家、藤原忠実の泰子お嬢さん、おん年 14歳、
その彼女を白河法皇は孫、鳥羽天皇 6歳への入内話を忠実に持ちかけます。
忠実に取っては 「持ってこい」 の願ってもないお話しを彼は何故かお断りしてしまいます。
この訳は良く理解できません。忠実と白河法皇、お二人にしか判らない何か特別な事情が合ったのでしょう。
艶を増した璋子さんに戻ります。そんな彼女を白河法皇は案じたのか?、はたまた嫉妬からか?
今度は、彼女を政争相手の藤原忠実の息子、忠通の奥様にしようと考え、忠実にそれとなく打診します。
今回も忠実は、彼女の噂話が耳に入っていましたので、
息子の結婚話をけんもほろろ、うやむやに 「断じてお断り」 の呈にでます。
その動きに対し、白河法皇は 「ムッッ」 となり、とてもお冠 (かんむり)のご様子だったとか。
ここに、璋子さんと藤原忠通との結婚は潰 (つい) えてしまったのです。
何かと気になる璋子さんの存在、あろう事か白河法皇は彼女を鳥羽天皇の奥様にしてしまいます。
これには白河法皇最愛の祇園女御さんの強ーいプッシュ (push) があったと想像できます。
頃は、1117年12月 白河法皇 65歳 璋子さん 17歳 鳥羽天皇 15歳 のお日柄です。
お若いお二人は、殊 (こと) の外、楽しく・スイート (sweet) な日々の連続。
やがて、1119年 5月 目出度くも、璋子さんは後の崇徳帝をご出産なさいます。 ・顕仁親王の誕生。 |
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その後、仲睦まじい、このお二人が世に送り出したお子さん達。
1122年誕生 ・禧子内親王 12歳 1132〜1133年の間、賀茂斎院
1124年誕生 ・通仁親王6歳
1125年誕生 ・君仁親王19歳
1126年誕生 ・統子内親王 64歳 1158年 後白河天皇の准母、後、上西門院
1127年誕生 ・雅仁親王66歳 後の今様好きな、後白河天皇 ・上皇 ・法皇
1129年誕生 ・本仁親王41歳 後に仁和寺、第5世門跡 覚性法親王
この皆さんが、藤原璋子 (待賢門院) と 鳥羽天皇 の愛のコウノトリなのです。
今の若いお二人は 「まあ、なんて・・・」 と思われるかも知れませんが、
璋子さんお産みになった7人のお子さんの内3人が夭折されています。
ほんのつい先だって迄、お子さんが無事、健やかに成長する事は至難の業だったのです。
ましてやおや、バスコン (birth-control) 何と云う代物は発想外も外のコンコンチキでした。
この間、1123年 鳥羽帝は白河法皇により天皇位を顕仁親王に譲位させられます。鳥羽帝は一応、上皇に。
顕仁親王から崇徳天皇に変身されたのは5歳の年です。
その翌年、璋子さんは 「院号」 を頂き、待賢門院 になります。彼女はその時、24歳。 |
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そして彼、☆の下 (もと) に生まれた崇徳天皇の存在です。
云う迄もなく、わたくし達 「人間生命体」 は、ウルトラ (ultra) の母と父との愛の賜 (者 ・物) です。
決して、順序は逆にはなりません。
お二人がいて、あなたがいるのです。努々 (ゆめゆめ) お忘れにならないで下さい。
親御さんを 「ウザイ」 とおっしゃる 「あなた」、あなたはそのウザイ方々のお子さんです。
お腹(なか)を痛めた方と痛める因を作った方だからこそ、口うるさいのです。
そんな方々以外に、この地球上で、あなたの事をご心配下さる方は存在いたしません。 |
やがて、お二人にお子さんが生まれようもんなら、あなた方がウザイ存在にヘンシン!ってな具合。
この歴史の連鎖が今現在、わたくし達の存在性になると思うのですが。
崇徳帝のお話に。崇徳帝の母は、間違いなく藤原璋子 (待賢門院) さんです。
父は、ノーマル (normal) ですと鳥羽天皇になる筈です。
しかしながら、崇徳帝の父は、白河法皇であると云う説がどうも有力なのです。
璋子さんは、1117年に鳥羽天皇と結婚をしますが、度々、白河法皇のお住まいにお邪魔されていたみたい。
彼女はこの時、17〜18歳ですので現在では1高校2〜3年生になり、キャピキャピのテーンエィジャーのお年頃。
彼女に対して、白河法皇と祇園女御さんによる 「恋の手解き」 は既に教授済みでした。法皇は65〜66歳。
彼女はキャリア・アップを図りたかったのか、はたまた、白河法皇が 「クラリ」 となされたのか?
白河法皇は恋の手解きからランクアップして、いやはや 「恋の足解き」 に及んだ感じなのです。
この感じを科学的?に証明しようとされたのが前出の角田文衛氏。
角田氏は、この時期に記された日記、この時期の事に触れている文献を研究され、
新潟市でお医者さんをされていた荻野久作博士 (1882〜1975) の理論までも駆使し、
崇徳帝のお生まれになった日から逆算して、璋子さんが白河邸に滞在していたと結論づけました。
崇徳帝に取りましては、どちら様が父であろうと物心がお付きになるまでご理解できません。
一方、世の中の皆さんに取っては、周知の事実?(但し、噂による推定考察です。)
しかしながら、表の世界では、皆さん鳥羽天皇のお子さんとして振る舞われます。
ここの処が、やっかいな 「建前と本音」 の日本文化。
この仕草が上手くおできになれる方が 「大人」 と称されていますし、「大人」 の所以になっています?
今のお子さん達は、余程の奥手の方以外、Santa さんが誰か良ーく知っています。
この 「構造原理」 (サンタさん原理 ・建前と本音) が全ての世界の世の中の共通定理なのだと、
少なくとも、親御さん達はご自分のお子さん達にいち早く、面倒くさがらず、メッセージをお願いします。
その後で、故にこそ、お子さん達に 「夢」 を抱かせて頂けたら最高! 決して順序を逆にしないで!
本音 (真実) を伝える事は、残念ながら、親御さんしかでき得ません。 |
半信半疑の皆さんは絶対 「がっかり」 しないで下さいね。
「そんな事はもうとっくにお見通しじゃわい」と云われる方々へも、
一つだけ真実が存在するのです。
でも、とてもきつい事ですので、やり遂げられる自身がある方だけへ、 |
ZIPANGUからの 「伝言」 です。 |
『追幻想の世界では、相手の方に 「嘘」 をつき通ーす事ができれば、その事は真実になるのです。』 |
お二人だけの時空間に於いては、「真実」 と 「嘘真実」 が両方存在できるのです。
とってもしんどい事ですから、呉々も腹を据えた後に、おやり頂きますよう節にお願いいたします。 |
崇徳帝の存在状況は、実際の所、
白河法皇 ⇔ 藤原璋子 (待賢門院) ⇔ 鳥羽天皇 の3人の方々のみにしか知り得ません。
後々の状況証拠から鑑み、基本的には、白河法皇 ⇔ 藤原璋子 (待賢門院) のお子さんであった
であろうと推定はできますが、あくまでも事実は、藪の中?
崇徳帝も物心が付き、たぶん、possibly ⇒ perhaps ⇒ maybe ⇒ probably と変遷され、
元服するお年頃には、彼も、何とはなしに心の中では確信されていたのではないかと想像できます。
もしかしたら、待賢門院さんは崇徳帝に耳打ちをされていたのかも知れません。
何 (いず) れにせよ、1117〜1129年の13年間は大過なく皆さん過ごされた趣です。
小事件?は、1120年に鳥羽天皇 18歳がもう一人の奥様を所望されました。
そのお相手は、摂関家、藤原忠実の泰子お嬢さん? 26歳でした。
今回は、鳥羽天皇ご自身のリクエストでありプロポーズだった為、忠実はその気になり動きます。
ところが、どっこい、白河法皇は、以前、法皇自身の要請を忠実に蹴られている件、
愛 (いと) おしくて堪らない?璋子さんをエイド (aid) する為に厳しく拒否します。
この一件で、翌年、白河法皇は藤原忠実の 「(文書) 内覧」 の仕事を取り上げてしまいます。
要は関白職の罷免です。関白職は忠実 44歳の息子の藤原忠通 25歳に移行します。
鳥羽天皇もお爺さんと璋子さんに対して、ささやかな抵抗を試みますが、鳥羽帝ご自身が、
美しく、艶があり、素敵な璋子さんを決してお嫌いではありませんでした。ちょいと駄々をこねた程度か?
美しくと記しましたが、「美の基準」 はあくまでも感性の問題ですので本当の所は不明です。
現に鳥羽天皇と璋子さんとの 1121〜1128年に渡る愛の営みとお子さん達をご覧頂ければ判明します。
璋子さんにしてもお二人の愛をお受けできるこの感性、これが 「平安キャリアウーマン」 の真骨頂です。
尚、平安キャリアにつきましては、「平安時代のキャリアウーマン(女房)」 をご覧下さい。
やがて、「月日が流れてドンブラコ。」 「いつまでも、あると思うな、親とお金。」 ってな感じで、
1129年7月7日、77歳の白河法皇は天寿を全うされました。 |
♥ 藤原得子 (美福門院) 鳥羽天皇 ♥ |
トップリーダーがお変わりになりますと、既存のものが反故にされるのは世の常。
鳥羽上皇は上皇であっても 「治天の君」 の立場を白河法皇お爺さんに牛耳られていました。
この年に初めて彼 27歳が実権を握る事になりました。 (崇徳天皇 11歳)
鳥羽上皇のお爺さん否定の手始めは、藤原忠実を政界へ復帰させる事でした。
京都宇治で過ごしていた忠実は再度摂関家の興隆作業に手を付け始めます。
忠実は1133年に娘の泰子 39歳 さんを鳥羽上皇 31歳に嫁がせます。
現在なら、なんの・その・なの・ですが、この時代はどうもお年だとお子さんは無理だった感じです。
そしてとても奇妙なのですが、待賢門院さんとのお子さんも 「ぷっつり」 途絶えてしまうのです。
この事実は、鳥羽上皇が未だお若く、「体」 と 「心=気持ち」 のバランスを欠いていたとしか思えない・・・。
がしかし、これも 「人様の恋路」 当事者 (追幻想同士) のお二人にしか分からない事です。
更に、1134年、「類い希なる美女」 との噂の藤原得子さん 18歳 を奥様にされます。
彼女のお爺さんは、白河法皇が大のお気に入りの藤原顕季(1055〜1123)です。 |
藤原得子 (美福門院)と鳥羽天皇が世に送り出したお子さん達。
1135年誕生 ・叡子内親王 14歳 准三宮 泰子さん (後の高陽院) の猶子に
1136年誕生 ・�ワ子内親王 76歳 二条天皇の准母、八条院
1139年誕生 ・体仁親王17歳 後の近衛天皇 (在位 1142〜1155)
1141年誕生 ・妹子内親王 36歳 二条天皇の奥様 高松院 (妹の旁は朱になります。)
*二条天皇 (在位 1158〜1165)(1143〜1165) 後白河天皇の息子さん。
帝位順列 崇徳天皇⇒近衛天皇⇒後白河天皇⇒二条天皇⇒(六条)⇒(高倉)⇒(安徳)⇒(後鳥羽)
一番最後の後鳥羽天皇が 「菊」 が大好きだったらしく鳥羽好美 (よしみ) で思わず菊をあしらってみました。 |
そして、待賢門院 美福門院 |
それ以後の、政治的展開は、ZIPANGU にとって不得手な分野ですので、皆様方でご確認下さい。
待賢門院と美福門院さん達もそれらに影響されますが、事、大胆不敵なお二人でしたので・・・・・。
とかく、わたくしたちは、歴史の結果を知っていますので、とやかく騒ぎますが、
歴史の実際の所は、まさにこの時空間で生活されていた方々でしか知り得る術 (すべ) がないのです。
と云うより、私たちが刷り込んでいる情報自体の信憑性に疑念を抱き、自分達なりに考えてみる事も・・・。
但し、想像時にはご注意下さい。スイッチを押すと電気がついたり、ガスの炎が出たり、お水が流れません。
その時空間でのお二人は、きっと以て、「楽しい事やら、悲しい事」 が起こっていた筈です。
そして、翻れば、今の瞬間、私達 ZIPANGU を含め皆様方が、日本文化の歴史を刻んでいるのです。 |
「奥深く、素敵な日本文化」 可能な限りの 「楽しい時空」 をお過ごし下さい。 |
次の女と男が織りなす心模様は、江戸、文化文政時代の 「お美代の方」 です。 |
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