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新サイ・ババ考 | 知りたがりな日本人のブログ@インドネシア

知りたがりな日本人のブログ@インドネシア

日本語では検索できないインドネシア国内の話題を、雑談に使えるレベルで解説。

国軍特殊部隊将校から連絡を受けて宮殿に足を踏み入れたとたん感じた霊力はだだならぬものだった。改宗する前の自分と同じ流派と同じ強さの霊力、それはインドから来ていると直感。同レベルの霊力同士が闘えば、生きるか死ぬかしかないがやる他に道はない。

 

自分にもしものことがあった場合のことを妻に託し、別れを告げ、3カ月間の呪術に入った。霊の闘いのために備えられたその家では、時には窓が割れたり、複数の手を持つ悪霊が現れたりした。そして、約束の3カ月が経ち、ついに相手が倒れたことを確信した。後になってわかったことは、丁度そのタイミングで亡くなったのが、かの有名なサイババだったという話。

 

これは、キリスト教に改宗してインドネシアのメガチャーチ協会で牧師として活動している元呪術師のD氏が、教会の説教の中で2020年に披露した話。D氏は幼い頃から、黒魔術師である祖父直々の特訓を受け、呪術師としてして成功していたが、ある牧師と対決して自分の魔術が効かなかった経験から、改宗して牧師になったという人物。

 

教会での説教だから”キリストの名を唱えて闘って悪霊に勝った”というのが落としどころだ。神様の名前が変わっただけでやってることは呪術師じゃないのかなどと突っ込みを入れたくなるが、教会に来てる人も含め、こういうイメージしやすい悪霊との闘いに勝った系の話は大抵の人が大好きである。

 

呪術師はこちらではドゥクンと呼ばれる。有名なのは、身体の中から釘を取り出したり、刀で身体を切りつけたり、ガラスを食べたり、熱した油に手を突っ込んでも何ともないところを見せたりという、超自然的な能力をみせつけるみせるもので、何もない手のひらやツボなどから品物を取り出して見せるサイババもドゥクンの一つ、ヒンドゥーのドゥクンと認識されている。

 

ドゥクンは生活に密着した存在で、病気になったら医者ではなく、ドゥクンに見てもらうという習慣が特に田舎には根強く残っている。地方には病院がなかったり、あっても遠く、苦労して行っても、良心的な医者に診てもらえるわけでもなく不当な支払いを要求される、又はお金がないから適当にあしらわれるだけだと大多数の人が思っている。つまり医療よりドゥクンの霊力の方が信頼されている。

 

ダヤック族の伝統的な衣装で踊りや祈りながら、ハーブオイルとマッサージで曲がった手をあっという間にまっすぐになおしてしまう魔法のマッサージ師イダ・ダヤック。治療費は受け取らず、普通の値段のハーブオイルを販売するだけの社会奉仕(神様への奉仕)としてやっている。

 

こういう人は大変稀だからこそ、全国各地を巡る彼女の行く先々で長い行列が出来る。勿論、ドゥクンを名乗る人の中には、○○の生まれ変わりだとか子孫を名乗って病気が治るといってただの水や油を理不尽な価格で売りつけられたりするケースも多い。当然、既に有名になっているイダダヤックの名前を勝手に借用した詐欺も後を絶たないという。

 

それでもドゥクンの持つ科学的には説明できないスピリチュアルな力は、やはり存在すると信じられている。病気を治す以外にも、警察の捜査にドゥクンが協力したり、野外イベントのためにパワン(雲を追い払うドゥクン)が活躍したりする。
#Aksi pawang Hujan Balap motor 

 

 

2022年マンダリカ国際サーキット場で開催されたMotoGPレースの最終日、選手も観客も皆、大雨が止むのを待つしかない状況下、スタンバイしていたパワンが登場して祈祷を始めた。たまたまだったのかどうかは定かではないが、1時間遅れでレースを開催することが出来たという。

 

また、選挙で勝つために呪術師が雇われる。政治家と呪術の関係は誰もがどこかで聞いたことのある話。Y大統領が後に出版した回想録の中で”大統領宮殿で度々悪霊からの攻撃を受け、その度に家族一致して神に祈り(イスラム教)切り抜けたと書いているけれど、冒頭のD氏の話もそのような文脈で解釈されている。

 

 

当時のインド大統領や首相らが、サイ・ババの信奉者であったという話は有名だし、やはりサイババフィーバーも実は政治的な何かがあったのだろうか?しかし国家権力と密接な霊能者なら、インドでなくても、もっと世界的影響力のある先進国にだっているはず。権力のバックアップさえあれば、民衆のこころを掴むと言うわけではない。

 

インドの聖人サイ・ババの称号とは何だろうか。我々のよく知っているアフロヘアオレンジの僧服のサイババは、実は二代目。初代のサイ・ババは、シルディーのサイババと呼ばれた人物で、こちらで紹介されているところによると、スーフィー教つまりイスラムの先生であった。

 

インドではイスラム教とヒンドゥーが何百年にも渡って共存してきたため、イスラム教の先生がヒンドゥー教徒から崇められるということは珍しいことではなかったという。自分たちの益になることをしてくれた、良いことをしてくれた人や動物などは神様の生まれ変わりだとして、像がつくられ布や花で飾られて、その人にまつわる何かを元にしたその人物特有の所作が加えられ、それが儀式として定着し後々まで伝えられるのだという。

 

 

#Orang india menyembah tramp

自作のトランプ大統領の像に礼拝をする男性。よいと思ったものを拝む。

賛同者が増え引き継がれるまでになるか否かは別として、これぞ多神教の原点。
 

”どの宗教も結局のところ求めているもの、神様は一つ、同じなのだから、宗教の違いで対立するほど愚かなことはない” シルディのサイ・ババが生きた時代は、イギリスの植民地支配でイスラムとヒンドゥー教徒が争い始めた頃、そんな中で、どの宗教であっても探しているのは同じ神様なのだから、宗教間の争いを止めるよう説いた人物だったという。

 

シルディのサイババが亡くなってから8年後に誕生したのがサティヤ少年。14歳の時にシルディのサイババの生まれ変わりだとサイババの称号を名乗るようになった。彼の生い立ちが書かれたものをみると、普通の少年とは違っていたことがあまりに強調されていて(盛られ過ぎで)わかりにくいが、シルディのサイババの教えについて知っていたことにはちがいないだろう。

 

サイババ語録をみてみれば、シルディのサイババの教えが引き継がれていることがわかる。人の心をコントロールして信者を増やすことにフォーカスする宗教なら、信者から集めた寄付金で研修センターをじゃんじゃん建てるものだということを私たちは知っている。サイババの活動がフォーカスしたのは、無料の病院や学校、寄贈した貧困地域の水道設備。亡くなった後も財団や信者によってそれらが上手く運営されているというのなら、少なくともテロ宗教じゃない。

 

 

良い木からは良い実が、悪い木から悪い実が実を結ぶ。良い木に悪い実は成らず、悪い木に良い実はならない。人はとかく枝や葉っぱを見て判断しがちだ。ただの手品だったじゃないかと現在では酷評されるサイ・ババの奇跡だって、より人の目に触れ、社会奉仕活動の資金を集めるための試行錯誤の一つだったと思うことは難しいだろうか?身に覚えのない人から先に石を投げるがいい。