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静岡県三島市は、市役所の室温が30度に達するまで冷房を使用しないことを決めた。 【略】 豊岡市長は「心頭滅却すれば火もまた涼しというが、職員には我慢してもらうしかない」と話していた。 参考 心頭滅却すれば - 一本足の蛸 追記(2011/05/29) 本文を書いたときには外出前で時間に余裕がなかったため、引用文とリンクだけにしたが、これは不親切な書き方なのでもう少し補足する。 見出しの「省令」とは事務所衛生基準規則(昭和47年労働省令第47号)のこと。その第5条第3号で次のように定められている*1。 事業者は、空気調和設備を設けている場合は、室の気温が十七度以上二十八度以下及び相対湿度が四十パーセント以上七十パーセント以下になるように努めなければならない。 「努めなければならない」という書き方をしているので、「努力したけどできませんでした」という言い訳の余地がある。見え透いた言い訳だとして
A.マズローの欲求階層説は、そのシンプルさのせいか、インターネットのライフハック記事・自己啓発書・ビジネス書などにしばしば引用されている。そのなかでやたらとクローズアップされるのは[承認欲求]と[自己実現欲求]という言葉だ。これって、おかしなことじゃないでしょうかね? マズローの欲求階層モデルは、[1.生理的欲求] [2.安全の欲求] [3.所属欲求] [4.承認欲求] [5.自己実現欲求] という風になっている。このうち、[1.生理的欲求] と [2.安全の欲求] は、衣食住が足りている人であればそれほど問題無いと思うし、だから気にする必要も無いだろう。 しかし、[3.所属欲求] [4.承認欲求] [5.自己実現欲求] に関しては、衣食住が足りればそれでオーケーというわけではなく、人間関係のなかで充たされなければならない。[4.承認欲求]などは特にそうだろう。だから、コミュニケーション能
今回は Chikirin 風におちゃらけ社会派で行こうと思う。(いつも真面目にしていると疲れるので) 私が敬愛するブログの一つに「ニートの海外就職日記」がある。そのちょっと前の人気エントリ。 「金払ってる方がエラい」という傲慢な価値観がお客様wのモンスター化を導く。 ニートの海外就職日記 これは海外に住んでみるとすぐに気がつくこと。私はいままで、カナダ・韓国・中国・ベトナムと4つの外国に住んだことがあるが、接客業の人たちの愛想は日本に比べて極端に悪い。その愛想の悪さのレベルは、驚くほど似ている。おそらく、世界で日本だけが突出して接客が良く、残りの国々はどんぐりの背比べじゃないだろうか。 私は、日本の接客のバカ丁寧さにときどき気持ちが悪くなるときがある。前回日本に帰ったときも、一本のミネラルウォーターをコンビニで買ったのだが、その気の毒なレジ係の中年女性はカン高い声で「いらっしゃいませ」「1
いろいろなサービスの“ほっこり”要素を取り入れた“ほっこりとこどり”なサービスが爆誕しました。(2024年12月26日)
秋葉原連続殺傷事件から一月余。八日付朝日新聞に社会学者、宮台真司が事件を振り返ってアッパレなコメントを寄せていた。宮台は言う。《メディアは単純な思考や情報を発信する。勝ち組と負け組の二分法もそうだ。「そんな誤ったメッセージを真に受けてしまうのは、なぜか」「一人でメディアに接触するときは情報に『直撃』されやすい」。身近に、お前はそんな話を真に受けているのかと言ってくれる人がいれば誤解は減る》 全く同感だ。 東京の渋谷や原宿で「援助交際」が話題になり始めた時、それを面白おかしく煽(あお)るかのように取り上げるメディアに毎回登場する社会学者がいた。その社会学者はきっと援交ギャルの一人と結婚でもするのだろうと思っていたのだが、彼が結婚したのは名門女子大卒の若く美しいお嬢様。しかも今時珍しい“箱入り娘”だった−とは、三浦展(あつし)の書くところだ。その社会学者は、名門の私立中高一貫校から東大に進学し
ネットを見てると、あちこちで「ポジティブ・ネガティブ」「モテ・非モテ」「勝ち組・負け組」「マッチョ・ウインプ」みたいな対立概念の話を見るんだけど、こういうのって本当にあるのかね。そういうのがあるってのもよくわからんし、対立があるってのもわからない。こういう議論に興味がないから見えてないだけかもしれんけど、全然わからんのだよね。 実際、オレがどっちに当てはまるかというと、こういうことになる。 どっちでもない 本質的にはどっちでもない。客観的に見て自分がここで書いてることはポジティブな内容なんだろうし、ビジュアルが残念なので非モテに属するだろうし、基本的にはフリーの貧乏人なので負け組だろうし、ややマッチョかなあとは思う。なので自分でそれを自称することはある。そうした方が話の展開上おもしろいし、ラクだから。自嘲気味の表現の方が大抵おもしろなので。 でも、実際はどっちでもない。どっちにも属さないし
思いは言葉に。 はてなブログは、あなたの思いや考えを残したり、 さまざまな人が綴った多様な価値観に触れたりできる場所です。
早く次のエントリーを上げなければと思いつつも、ついつい時間を無為に過ごしてしまって、やっとエントリーを書き上げた。今回も引き続きテーマは科学と道徳。前回『【語りえぬもの】を語る姿勢』の続きである。 前々回の“道徳は【語りえぬもの】である”との結論を受けて、前回は“「節操」の欠乏した道徳者はニセ道徳者”と結論した。ここでいう「節操」とは“道徳を【語りえぬもの】として語ることであり、そこから“「節操」の欠乏”は“道徳をあたかも【語りえるもの】として語る”ということが導かれる。すなわちニセ道徳者とは“【語りえるもの】として道徳を語る者”ということになる。 ではニセ道徳者とは誰を指して言うのか? もちろん、具体名を挙げるといった「節操」に欠けた行為はできない。具体名は【語りえぬもの】としておいたほうがよかろう。それよりも、ここではニセ道徳者の有様をなるべく具体的に考えてみたい。そこで科学を【語りえ
こういう意見も、結局は結果論にしか過ぎないと思うんだよね。「ロストジェネレーション世代は金の卵」説。 2008-04-21 全般通して思うのは「モノは考えよう」。でもこれは事実。ポジティブに考えるとそう。ピンチと見るか、チャンスと見るか。これは単なるコインの裏表ではあるんだよね。どこに基準を置くかの問題にしか過ぎないわけで。片側を表と決める。それと反対の性質が自動的に裏となる。ただ、それが本当に表なのか、裏なのかは誰もわからない。 現状が良ければ、過去はすべて善となり、表になる。ロストジェネレーション世代で良かった。良い時代に生まれた。 現状が悪ければ、過去はすべて悪となり、裏になる。ロストジェネレーション世代で悪かった。悪い時代に生まれた。 この両者の差は、単なる結果論。結果によってコインの片側を決めただけ。良ければ表、悪ければ裏。しかしそれは本質じゃない。相対的に決まったもの。自分の満
2008年02月25日19:00 カテゴリLovePsychoengineering 記憶とは、傷である。 いい機会なので、「傷つく」ということについてまとめておくことにする。 30歳から34歳が受けた心の傷 どうしたらいいの? おしえて、ダンコーガイ! 心の傷つかない人間は凄いと思う - Screw Pile Driver 少なくとも、僕は『バカ』って言われたらそれだけでも傷つく。 本entryのタイトルどおり、私は記憶とは傷であると考えている。形而上的な意味だけではなく形而下的な意味でも。詩的な意味だけではなく散文的な意味でも。 人類にとって、記録を取るとは、文字通り媒体に傷をつけていくことだった。石に石で傷つけ、粘土版にヘラで傷つけ、パピルスにペンで傷つけ、木簡に筆で傷つけ....これは現在においても、記録の基本だ。CD-Rというのは、強いレーザーでブランクに傷をつけて記録し、弱いレ
読解力の決定的な差 - 素通りできなかった時のために その同じ本について、その本が否定的に捉えているとしか思えないことを常日頃披露なさってる方が、つまりその本に恐らくやんわりとDISられてる(と私には思える)人が、好意的ともとれる書評をしている( 「非集中化した私」と「自分探Sier」の葛藤 - アンカテ(Uncategorizable Blog) )のである。 「自分探しが止まらない」は単なる社会批判の本とだけとらえるより、単純に割り切れない入り組んだ表現として受けとめた方が面白いと思う。これについては、id:yamatedolphinさんが引用している深町秋生さんも、次のような感想を読むと同じような感想を持たれたように感じる。 とはいえこの韜晦男の言葉はどこまでが本気でどこまでがネタなのかがわからないのだが この人はどことなく一力茶屋で遊びほうける大石内蔵助に似ている。 だけど、「批判
「自己実現教」なんて言葉があるけれど、この現代に生きる人はほとんど自己実現教の信者だと思う。日常生活において「自己の捉えなおし」とそれを「未来の自分」への資源にするという反復作業は、程度の差こそあれほとんどの人々が経験させられている。違うのは、自己実現教への信仰告白があるかないか。自覚的か無自覚か。その程度に過ぎない。 「自己」への言及は、あらゆるところで待ち構えている。いまや何を事実とするか、何を事実と「選び取るか」その選択でさえ自己責任になっている。自分が事実だと思ったものが事実になり、自分の世界を構築する。それは語彙となりその人の「リアル」となり、自己を編み上げる素材となる。ケータイ小説のリアルも、リアリティ番組のリアルも、自分が何を世界の構築物にするのか、その基準であり、要素である。 新聞・テレビ・ネット・新書・ドキュメンタリー映画・ノンフィクション小説 .etc ……いまや「事実
不安と孤独の強度 現代において、人が立ち向かわなければならないものは、世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくるということだ。 この強度を受け入れることはそう簡単なことではない。人はこの強度による不安と孤独であわてふためき、逃亡をはかる。現代のテクノロジーが教えてくれるのは、よりよい逃亡の方法である。ゲームであり、ネットであり、お手軽なコミュニケーションによって、すみやかに逃亡を手助けする。 なぜこれほどに大量の消費が必要であるのかは、この孤独によるものだ。すなわち資本主義経済が成立するのはこのような原理によるとともに、資本主義経済は自由と平等と言う名の孤独を発明したともいえるだろう。 動物化とスノビズム このような現代において生きる道は二つある。先のように資本主義的な消費の熱狂に没入するか、あるいはあえて消費を抑制し、原理主義的な禁欲な
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