フィンランドが生み出したエクスペリメンタル・ミュージックの巨星の死をBlast FirstのレーベルボスPaul Smithが思い出と共に悼む
一条真也です。 小倉高校の同級生で音楽プロデューサーの朝本浩文君が先月30日に亡くなりました。同じく同級生である経営コンサルタントの首藤章三君が報せてくれました。まだそのときは内密とのことで他言は一切しませんでしたが、大変ショックを受けました。高校時代は別々のクラスでしたが、予備校時代はずっと朝本君、首藤君とトリオで行動していました。他の2人は慶應で自分は早稲田に分かれましたが、大学時代も3人で仲良く遊んだ仲でした。 「ヤフー・ニュース」より ヤフーのTOPニュースにも掲載されていましたが、「音楽ナタリー」配信の「朝本浩文が53歳で逝去」という記事には以下のように書かれています。 「朝本浩文が11月30日に逝去したことが明らかになった。53歳だった。 朝本は2014年9月に自転車事故で頭部を強打して意識不明となり、そのまま療養生活を続けていた。朝本の妻、由美氏は彼の療養生活を支援するプロジ
シンセサイザーを使った電子音楽の第一人者として世界的に活躍し、先月亡くなった作曲家の冨田勲さんのお別れの会が東京で営まれ、参列したおよそ800人が別れを惜しみました。 15日、東京・港区でお別れの会が開かれ、映画監督の山田洋次さんや歌手の由紀さおりさんなど、親交のあったおよそ800人が参列し、祭壇に向かって全員で黙とうしました。 このあと、多くの映画作品で冨田さんと仕事をしてきた山田洋次監督が「冨田さんなくして今の僕はなかったのだと、今しみじみと思います。さようなら冨田さん。美しい音楽を作ってくれてありがとう。あなたとあなたの芸術を僕はいつまでも忘れません」と別れのことばを述べました。 また、冨田さんに影響を受けた世界的ミュージシャンのスティービー・ワンダーさんがビデオメッセージを寄せ、「彼は並外れた発想とほかに出会ったことのない精神を持っていました。今は彼が残してくれたすばらしい作品を祝
歳を重ねて、嫌だなと思うことは、わたしの場合あまりない。ただ、25歳前後に知り合いの結婚式ラッシュがあったように、歳を重ねると喪服を着ることが多くなるのだ。だが、この人は、まだ大丈夫と思い、覚悟をしてなかった人が逝った。80歳で、車椅子に乗り、鼻に管をしていたにもかかわらず、だ。蜷川幸雄さんは、その状態で、演出しながら怒り、あいかわらずの調子で台本を床に叩きつけている映像が流れたこともあったから、なんとなく油断していたのだ。 蜷川さんは、女優としてのわたしと、歌手としてのわたしの両方でお世話になり、卑屈なわたしに、両方の自信をくれた人だ。 亡くなる数年前にも、「サワコの朝」という番組で、まだ凄いことを言ってくださっていた。ソロになってからずっと好いてくださったのだ。自分で書くのは、あまりに恥ずかしいから、ネットで調べていただきたい。さいたまゴールド・シアターという、高齢者だけの劇団を作った
冨田勲先生(と見ず知らずの方なのに「先生」とすることをお許し頂きたい。しかし、「先生」としか呼びようがないのだ)の音楽は、ある世代以降の日本人における「無意識の記憶」のようになっている部分があるように思える。 たとえば、あの有名な『月の光』『展覧会の絵』『火の鳥』『惑星』を初めとする歴史的なシンセサイザー・アルバムは、「電子音楽」の大衆化における日本人の無意識だったといえるし、『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『どろろ』などの60年代の虫プロダクション制作の手塚治虫原作のTVアニメや『キャプテンウルトラ』や『マイティジャック』などの特撮ドラマは、ある世代の「幼年期」の記憶だし、『新・平家物語』(1971)などのNHK制作の大河ドラマ、『新日本紀行』、『きょうの料理』のテーマ曲などは、ある時代の「お茶の間」の記憶であった。もしくは冨田先生から松武秀樹氏、そしてYMO(以降)へという影響力。つ
『国のない男』 著者:カート・ヴォネガット 価格:1,680円(税込) 発行:NHK出版 ISBN-13: 978-4140812518 【Amazon.co.jpはこちら】 昨年4月に逝去された アメリカの現代文学作家、カート・ヴォネガット。 「ほぼ日」乗組員にもファンが多く、 「本読む馬鹿が、私は好きよ。」でご紹介したり、 ここでも早川書房の『S-Fマガジン』追悼特集を ご紹介しました。 そして、そのカート・ヴォネガットの 遺作であるエッセイ集が、この本です。 この本を担当されたNHK出版の 松島さんにお話をうかがいました。 (「ほぼ日」渡辺) ****************************************** 担当編集者/ NHK出版 図書編集部 松島倫明 愛は消えても親切は残る、 と言ったのはカート・ヴォネガットだっけ。 と書いたのは村上春樹だった (『雨天炎天』
十代は懐がさびしいので湯水のごとく音楽に金を使うわけにはいかない。いきおい、ただで聴けるラジオがことのほか大切になる。彼とのつきあいは短くない。年端のいかないころにさかのぼるので、幼なじみ同然、長じて友人、ほとんど恋人。とはいえ、性交するわけではないので親友くらいで手を打ちたいが、友だちのだれよりもいっしょにすごす時間は長かった。中学にはいるころにはいくらか距離ができて、好きな番組を選んで聴くようになった。NHK FMのバラカンさんや渋谷陽一氏、同じ時間帯のヒット曲のリミックス中心の番組(DJは失念)と、日曜夜の「現代の音楽」は欠かさずエアチェックした。テーマ曲であるヴェーベルン編曲のバッハ「6声のリチェルカーレ」につづき、上浪渡さんの「現代の音楽です」のナレーションが入ると、寝床のなかで居住まいを正したものだ。60分テープに録音しつつ耳を傾けながら気づいた朝のこともしばしば、私にとってブ
先月、90歳で亡くなった現代音楽界最大の巨人と目された音楽家、ピエール・ブーレーズさん。親しく接していた作曲家の藤倉大さんが追悼文を寄稿した。 ◇ ここ数年、ご病気だと聞いていたので、いつかこの日が来るかとは思っていたけれど、実際に訃報(ふほう)を聞き、それを伝えるニュースの数を見て、改めてその存在の大きさを思う。僕の住んでいるイギリスのBBCは、音楽業界の有名人を集め、即座に追悼番組を作った。亡くなったことがここまで大きく扱われた現代音楽の作曲家は、これまでにいなかったと思う。 当然のことだろう。音楽の歴史上、ブーレーズほどいくつもの音楽の分野に、世界レベルで携わった人はいないのではないかと僕は思っている。ブーレーズの業績はたくさん記事にも本にもなっているので、興味がある人はそこで詳細を読んでもらうとして、ざっと挙げてみるとこんな風だ。作曲。指揮。教育者。現代音楽のみを演奏するためのアン
【ニューヨーク=有光裕】アウトドアブランドとして有名な米ザ・ノース・フェイスの創業者であるダグラス・トンプキンス氏が8日、チリ南部のパタゴニア地方で、乗っていたカヤックが転覆する事故で死亡した。 欧米の主要メディアが伝えた。72歳だった。 報道によると、トンプキンス氏は5人の仲間と一緒に、チリとアルゼンチンにまたがるヘネラル・カレーラ湖でカヤックに乗っていたところ、強い波で転覆した。チリのコイハイケ市内の病院に運ばれたが、集中治療室で亡くなった。 トンプキンス氏は1966年、サンフランシスコでザ・ノース・フェイスを創業、スキーやアウトドア用品の販売を始めた。引退後、アルゼンチンやチリに広大な土地を取得し、アウトドアの普及や環境保護活動に取り組んでいたという。
映画『タワーリング・インフェルノ』(1974)や『キングコング』(1976)などのジョン・ギラーミン監督が亡くなった。The Hollywood Reporter に妻のメアリーさんが語ったところによると、ギラーミン監督は心臓発作のため、現地時間27日にカリフォルニアの自宅で息を引き取ったという。89歳だった。 【写真】火災でビルに閉じ込められる人々 映画『タワーリング・インフェルノ』 スティーヴ・マックィーンやポール・ニューマンが出演した『タワーリング・インフェルノ』は、超高層ビルでの火災を描いたパニックアクション作品。130階以上のビルに何百人もが閉じ込められる姿を追った本作は、世界中で大ヒットし、第47回アカデミー賞では作品賞にノミネートされた。 ロンドン出身のギラーミン監督は、英国空軍除隊後にドキュメンタリー映画の製作に携わり、映画『ターザンの決闘』(1959)や『ブルー・マックス
イギリス人監督のジョン・ギラーミンが、今週初旬に死去したと伝えられた。89歳だった。代表作は1976年・86年に公開された『キングコング』シリーズや『タワーリング・インフェルノ』(75)、また、『黒いジャガー/アフリカ作戦』(73)、『ナイル殺人事件』(78)などアクションやアドベンチャー作品を多く手掛けた。 【関連】ギラーミン監督作『キングコング2』(86)フォトギャラリー ギラーミン監督はイギリス・ロンドン生まれ。1950年にサスペンス・スリラー『Torment(原題)』で監督デビュー。フランスでドキュメンタリー映画の監督としてキャリアをスタートさせる前には、ケンブリッジ大学で学びその後イギリス空軍で勤務するという経歴を持つ。 ギラーミン監督作『かもめの城』(66)のビデオ化で共に仕事をしたDVDレーベルのレッドマン氏は「彼は頑固だけど、とてもチャーミングな男だった」とコメント。さらに
私が鶴見俊輔さんに出会ったのは、私が20歳で鶴見さんが44歳のときだった。 飯田橋駅から数分のところにあった雑誌「思想の科学」の編集部で、1966年のことだから49年前のことになる。ずいぶんと昔のことにも思えるが、つい先ごろのようにも思える。 それから私は思想の科学研究会で学び、鶴見さんにさそわれて雑誌「思想の科学」の編集委員になり、編集代表にもなった。鶴見さんを経由して「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」に行って、吉川勇一さんと小田実さんにも会った。それから10年間もベ平連その他の市民運動の政治活動をしていた。 それらは私の大学でもあった。というのは鶴見俊輔さんに会ってしばらく後に、私は大学をやめてしまっていたから。 鶴見さんも吉川さんも小田さんも、私たちの年上のリーダーにして年上の友人でもあった人びとは死んでしまった。 と書くと「オレはまだ生きているぞ」と言う人の顔が浮かぶけれどね
鶴見俊輔さんは私がもっとも尊敬する評論家、哲学者だった。雑誌「思想の科学」を創刊したことでも知られる。手の届くところには、いつも鶴見さんの本がある。 私が京都に住みたいと思うよう… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。 この記事は有料会員記事です。
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