〘 形容動詞ナリ活用タリ 〙 水のみなぎりさかまくさま。水や波が音をたててはげしくぶつかりあうさま。転じて、物事が盛んな勢いでもりあがるさま。強く起こりひろがるさま。[初出の実例]「万里源而往、澎湃拠二上游一」(出典:岷峨集(1313‐28頃)上・七月下旬、嘉陽観水漲三十韻)「其思想の澎湃たる、世を挙て古文化の吸収に従事し」(出典:美術の翫賞(1895)〈上田敏〉)[その他の文献]〔司馬相如‐上林賦〕

〘 形容動詞ナリ活用タリ 〙 水のみなぎりさかまくさま。水や波が音をたててはげしくぶつかりあうさま。転じて、物事が盛んな勢いでもりあがるさま。強く起こりひろがるさま。[初出の実例]「万里源而往、澎湃拠二上游一」(出典:岷峨集(1313‐28頃)上・七月下旬、嘉陽観水漲三十韻)「其思想の澎湃たる、世を挙て古文化の吸収に従事し」(出典:美術の翫賞(1895)〈上田敏〉)[その他の文献]〔司馬相如‐上林賦〕
熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年〈明治22年〉12月18日 - 1966年〈昭和41年〉6月11日[1])は、日本の皇位僭称者。大延天皇、または熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。 戦前は皇位や皇族を僭称することは不敬罪として処罰対象であったが、GHQ体制下で取締りが弱くなった戦後の一時期、皇位継承者を自称する者たちが各地に出現し、世間の耳目を集めた。熊沢はこれら「自称天皇」の代表的存在である。 熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする[2]。また、足利氏から帝位を追われ、応仁の乱の際に西軍の武将だった斯波氏が尾張国守護職をしており、宗良親王の末裔の大橋氏や、楠木氏ら南朝ゆかりの武将が多く住している尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ
以前の漢字文化資料館で掲載していた記事です。2008 年以前の古い記事のため、ご留意ください。 Q0481 ツツジは漢字で「躑躅」と書きますが、2文字とも「足へん」です。どうしてですか? A 「薔薇」はバラ、「葡萄」はブドウ、「菖蒲」はアヤメ。いかにむずかしい漢字でも、「草かんむり」が付いててくれれば、草花の名前であることはわかります。でも「躑躅」ときた日には、これがあのきれいなツツジを表すなんて!難読漢字のクイズによく出題されるのも、もっともです。 この「躑躅(音読みではテキチャク)」を小社『大漢和辞典』で調べてみると、意外なことがわかります。まず最初に出てくる意味は、「足で地をうつ」。2番目は「行きつもどりつする」。3番目は「躍(おど)りあがる」。てな具合で、なかなかお目当てのツツジが出てこないのです。 でも、「躑躅」の意味が本来はこの3つだったとすれば、「足へん」が付いているのはナッ
『隠語辞典』(東京堂出版)によると、客。買手。店に立ち寄る人。〔来たかちょおさん待ってたホイ?〕とあり。 『隠語大辞典』(皓星社)にも 「買手、店頭に立ち寄る人物のこと。」などの意味あり。 『ことば遊び辞典』(東京堂出版)には「とうとうおいでなすったかという軽口」といった意味はあった。 『大辞泉』(小学館)にも意味はあるが、長さんは不明。 『死語辞典』類を見てみるが、わからず。 Googleで検索すると、「いかりや長介以外にありえない」とか「長島茂雄さんだと思う」などの説もあるが、 昔から言われていそうなのでどうか? 『懐かしい日本の言葉ミニ辞典』(藤岡和賀夫 宣伝会議 2003)がちょうど出版されたので見てみたが 「それが誰かは突き止められないけど」という記述あり。 『集団語辞典』(東京堂出版)には〔「長さん」とはスリの用語で(スリの)被害者や田舎者を指す〕とあったが 一般的ではないと思
『常山紀談』(じょうざんきだん)は、江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文25巻、拾遺4巻、それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」1巻よりなっている。著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山。 原形(自序)は1739年(元文4年)成立。完成は1770年(明和7年)とされる。戦国武将の逸話470条を収録。いわゆる勧善懲悪ではなく、複数の有名な逸話を短く編集して主題ごとに一つの条にまとめて、評論を加えずに淡々と記している。 草稿(自序)の完成は比較的早期に行われたが師匠である太宰春台の意見を入れて徹底的な再改稿を行い30年かけて満足のいく形に完成させたといわれる。常山は1781年(天明元年)に74歳で死去し、本書の版本での初刊は死後20年後のことであった。『名将言行録』(江戸末期・岡谷繁実著)の原形ともいえる。 逸話集の形体は、事実を重視しようと
公事宿(くじやど)は、公事訴訟や裁判のために地方から来た者を宿泊させた江戸時代の宿屋。公事人宿・出入宿・郷宿・御用宿とも呼ばれた。 「公事宿」という名称は主に江戸の宿屋に用いられ、地方の城下町や代官所の陣屋近くにあった宿屋は「郷宿」(ごうやど)と呼ばれることが多かった。両者を総称して「御用宿」(ごようやど)ともいう。また、江戸の公事宿は旅人宿と百姓宿に分けられるが、両者をまとめて江戸宿と呼ぶこともあった。大坂では、大坂町奉行所の御用を勤めた御用宿を用達(ようたし)と呼んだ。 江戸の公事宿は、馬喰町小伝馬町旅人宿、八拾弐軒百姓宿、三拾軒百姓宿(三拾組百姓宿)、それに十三軒組があり、それぞれ仲間組織を形成し、独占営業権を与えられていた[1]。旅人宿は町奉行所と、八拾弐軒組は公事方勘定奉行所、三拾軒組は馬喰町御用屋敷とそれぞれ密接な関係にあり、百姓宿はそれぞれの役所の近辺に建てられていることが多
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