さて、英国の第一次世界大戦中のミリメシ事情が大概悲惨だったことを前回「第一次世界大戦のミリメシ事情…まずいわ、量は少ないわ【第一次世界大戦100年Vol.10】」において紹介しましたが、戦場となった当事国のフランスはもっと大変でした。何しろ、助っ人として来た英国など連合軍と、自分達の軍、植民地からの救援軍の面倒を見なければならなかったからです。しかも、占領されている分、自由になる農産物は限られる訳ですから。 そうした悲惨な事情を、17thdivision.tripod.comというサイトが紹介しています。 フランス料理の国だもん 兵士が作って配膳せい! 当初、フランス陸軍は大隊や中隊レベルで食糧補給していました。つまり、最前線の兵士の場合、順繰りで役割を宛てられては、自分達で調理をしたり、配ったり、塹壕のメンテナンスとかをしていた為、兵卒の間では疲労が蓄積していきました。 …と言うか、調理
豪州で最も英雄視されている「ロバを連れたシンプソン」の伝説が揺れている。第1次世界大戦の激戦地トルコのガリポリ半島で戦死した1等兵をめぐる素顔が、最近の歴史研究で徐々に明らかにされているためだ。今年で開戦100年となるのを機に、冷静な検証を期待する声もある。 ■「秀でた要素ない」 政府機関 …
第1次世界大戦の激戦地だったベルギー西部の都市で、およそ100年前の不発弾が爆発し、建設作業員2人が死亡、2人が大けがをしました。 ベルギー西部の都市、イーペルの工業地帯の工事現場で19日、およそ100年前の第1次世界大戦の不発弾が爆発しました。 地元の警察によりますと、この爆発で建設作業員2人が死亡し、2人が大けがをしたということです。爆発があった当時、作業員たちは昼休みだったということで、警察は不発弾が爆発した詳しい経緯を調べています。 イーペルは第1次世界大戦の際、連合国軍とドイツ軍が互いに激しい砲撃のなか、一進一退の攻防を続け、両軍で合わせて数十万人に上る犠牲者が出た激戦地として知られ、今も市内からは大量の不発弾が見つかっています。 ベルギー軍が処理した砲弾などの爆発物は、この4年間で600トン余りに上るということで、第1次世界大戦の終戦から100年近くがたった今も、不発弾は人々の
「日中尖閣開戦危機」「暴走中国、尖閣“強奪”シナリオ」 中国が東シナ海上空に防空識別圏を設けた昨秋以降、扇情的な見出しがメディアに躍る。どこかはしゃいで、うれしそうな。この叫び、何かに似ている。 「There is the line!(そこに線があるんだ!)」 ヨーロッパ地図を前に絶叫するドイツ人の老人。教師にあおられ、教え子たちは愛国心に昂(たか)ぶり、フランスとの国境近くの塹壕(ざんごう)へ、志願して赴く。1930年の映画「西部戦線異状なし」にある、印象的な場面。 第1次大戦の西部戦線では、スイス国境からフランス領内を通ってイギリス海峡まで抜ける、数百キロに及ぶ塹壕が掘られた。「死の迷宮」とも呼ばれた塹壕に閉じこもり、若者たちはこの長大な線上で、死を待った。 それから約100年。死の線上近くの町で2006年、1冊の本が完成披露され、世界の教育関係者を驚かせた。独仏の研究者が共同で執筆し
「帝国の『辺境』にて」を読み終える。 この夏、初めて訪れたコミケで、初めて買った本。 コミケといえば薄い本らしいが、これば二百頁近い薄く無い本。著者はRNVR花組・こんぱすろーずさん。 内容は、第一次世界大戦時のドイツ領西アフリカ植民地に対する英仏の軍事、政治行動を主に、簡潔ながら戦場となった西アフリカの地誌、社会構成にまで触れた一冊。 当時の日本にとってさえ、戦争特需とアジアと地中海における小規模な軍事行動以外は遠い木魂でしかなかった第一次世界大戦だが、現在では主戦場となったヨーロッパの戦闘についてさえ、歴史家や軍事研究家の一部を除けば、知る人は殆どいないだろう。 それでもエンターティメントの題材として「アフリカの女王」等で取り上げられた東アフリカの戦いについては、まだ僅かながら聞くこともあるだろうが、西アフリカの戦いについて知見を持つ人はごく少数だろう。 東アフリカ戦テーマのウォーゲー
第1次大戦に参加した最後の人物 F・グリーンさん死去 AP通信などによると第1次大戦に参加した記録のある最後の人物、フローレンス・グリーンさん4日、英南東部ノーフォーク州の介護施設で死去、110歳。介護施設が7日、明らかにした。 1901年、ロンドン生まれ。大戦末期の18年、17歳で英空軍の女性部門に参加、ノーフォーク州の軍施設の食堂で接客係として勤務した。(共同)
→紀伊國屋書店で購入 本書で、著者、山室信一は新たな一歩を踏み出そうとしている。京都大学人文科学研究所の共同研究「第一次世界大戦の総合的研究に向けて」は、開戦100周年にあたる2014年に最終的な成果を世に問うことを目標として、2007年にスタートした。著者にとっては、個人的にもうひとつの意味がある。京都大学での最後の共同研究という意味である。その意味で、なんらかのまとまりをつけようとしているのかと思ったら、とんでもない間違いである。 「あとがき」で、著者は、本書をつぎのように自分自身の研究のなかに位置づけていることを述べている。「何よりも私自身が次の課題としている第一次世界大戦における「世界性」と「総体性」とは果たして何であったのか、という問題へ向けて進むに際して、立ちはだかっている壁に挑むために不可欠な、足元の地固め作業でもあった。その意味で「日本にとっての第一次世界大戦」を「戦争と平
ソンムの戦いは1916年7月1日開始された。この時BEFの司令官はヘイグだった。ソンム初日、イギリス軍だけでその1日に戦死者19240人、負傷者57470人、行方不明者2152人をだした。戦線は狭く24km程度だった。もちろん、これは第1次大戦で1日の攻撃側損害の最高記録である。 1日に捕虜をもっと出すことはある。しかし戦死行方不明者が2万人を越えている。ちなみに第2次大戦で、ヒトラーのドイツは90日間でほぼ同様の被害をうけながら、フランスを敗北させている。また日露戦争の旅順攻城戦では日本側は7ヶ月で死傷者6万人を出すが、ソンムの英軍は1日でほとんど寸土も得ていない。 突撃にうつるイギリス軍兵士 イギリスは決して好戦的な国ではない。しかし兵士と軍隊が弱体な国ではない。戦後この日特別なことはなかったように論及自体が避けられている。またある論者は第1次大戦では全世界で1日5千人の戦
スペイン南部アルヘシラス(Algeciras)に停泊する米海底探査会社オデッセイ・マリン・エクスプロレーション(Odyssey Marine Exploration)の船舶(2007年7月12日撮影、資料写真)。(c)AFP/JUAN MUNOZ 【10月11日 AFP】第1次世界大戦中の1917年に、北大西洋で独軍の魚雷攻撃をうけて沈没した英国の貨物船マントラ(Mantola)号の探索に、米海底探査会社オデッセイ・マリン・エクスプロレーション(Odyssey Marine Exploration)が成功した。同社が10日、明らかにした。マントラ号は、現在の価格で1900万ドル(約14億5600万円)相当の銀、約20万オンス(約5670キログラム)を積んでいたという。同号の引き揚げは来年となる見通し。 マントラ号が見つかったのは水深2500メートルの海底で、オデッセイ社が前月末に発見した英
スカーバラ、ハートルプールおよびウィットビー襲撃(The raid on Scarborough, Hartlepool and Whitby)は1914年12月16日、イギリスの港湾都市、スカーバラ (Scarborough, North Yorkshire) 、ハートルプール (Hartlepool) 、ウェスト・ハートルプール (West Hartlepool) およびウィットビー (Whitby) に加えられたドイツ海軍の攻撃である。 この攻撃によって137名の死亡者と592名の負傷者が出たが、その多くは民間人であった。結果として、民間人を攻撃したドイツ海軍と、襲撃を防げなかったイギリス海軍に対し、公衆の激しい憤激を招いた。 ドイツ海軍は、イギリス海軍の小規模な部隊をおびき寄せて殲滅する機会を窺っていた。少し前のヤーマス襲撃は、成果が乏しかったものの、イギリス近海を迅速に襲撃する潜
パッシェンデールの戦い(パッシェンデールのたたかい、英語: Battle of Passchendaele、パッセンダーレの戦い、第三次イーペル会戦とも)は、第一次世界大戦の西部戦線における主要な戦いの一つ。1917年7月末から同年11月まで続いた。戦闘はイギリス、ANZAC、カナダ、南アフリカからなる連合国軍対ドイツ軍の間で戦われた。 連合国軍の目的は、ベルギーのウェスト=フランデレン州イーペル付近にあるパッシェンデール(パッセンダーレ、en:Passendale)を制圧し、ドイツ軍戦線に突破口を開きベルギーの海岸線まで進出、Uボートの活動拠点を占拠することにあった。これだけの突破作戦が成功すれば、戦線の要である位置に決定的な通廊が穿たれることになり、フランス軍への圧迫も除去されると期待できた。[2] 戦場となった地域の大部分は元は沼沢地であり、雨が無くともぬかるんでいた。イギリス軍によ
→紀伊國屋書店で購入 著者、藤原辰史は悩む。世界全体で飢餓人口9億2500万と試算される現状のなかで、「ヨーロッパの一国が一時期体験したにすぎない飢餓の事実は読者の目にあまりに小さく映るのではないか」。「経済大国ドイツの飢餓の状況を経済大国日本で紹介することにどれほどの意味があるのか」。「結局は、「先進国」中心主義的な見方を補強することになりはしないか」。この著者の真摯な悩みを、本書のもととなった講義の受講生や講演会の聴衆は、しっかり受けとめた。その理由は、本書を読めばわかる。 第一次世界大戦がはじまった翌年の1915年から休戦協定が成立した18年までのドイツの餓死者は、76万2796人であった。ここには兵士は含まれない。食料輸入大国ドイツは、生命線としての輸送網を、イギリスの海上封鎖などによって断たれ、「兵糧攻め」にあった。その結果、1915年の「豚殺し」と1916年から17年にかけての
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