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山川健次郎の生涯~白虎隊から東大総長へ
今日は何の日 昭和6年6月26日 東京帝国大学総長・山川健次郎が没 昭和6年(1931)6月26日、東京帝国大... 今日は何の日 昭和6年6月26日 東京帝国大学総長・山川健次郎が没 昭和6年(1931)6月26日、東京帝国大学総長・山川健次郎が没しました。会津藩士で家老山川大蔵(浩)の弟、山川捨松の兄にあたります。 嘉永7年、健次郎は会津藩士・山川尚江の3男に生まれました。万延元年(1860)、7歳の時に父が没し、家督は9歳年上の兄・大蔵(浩)が継ぎます。 慶応4年(1868)8月、新政府軍は会津若松城下へと迫りました。 数え年15歳の健次郎は、白虎隊に属していました。 16歳、17歳の少年で構成される白虎隊ですが、この時期、15歳まで含めていたのです。 しかし、満14歳の少年に重い鉄砲を担いで戦うことは体力的に無理があると判断され、ほどなく15歳の少年たちは除隊となります。従って、8月23日の新政府軍の城下侵攻に伴い、山川家が会津若松城に入った折には、健次郎は家族とともにありました。籠城戦中、山川家
2018/01/22 リンク