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戦跡に関するfacebooookのブックマーク (5)

  • 戦争の記憶、いかに次世代へ?Coccoが明かす「祖父母の教え」(琉球新報)

    「忘れなさい」 そう言われると、逆に忘れられなくなることが誰にでもあるだろう。 あれは夏の日差しが強い日だった。 祖母と曾祖母が唯一、沖縄戦のことを話してくれた日。 心が強い人で、“笑い上戸”の祖母がその時は目にハンカチを押しつけながら泣いていた。 そして言ったのだ。「この話は忘れなさい」と。 その孫娘であるアーティスト・Coccoは忘れなかった。 むしろそれはCoccoが「戦争」を語り継ぐ原点になった。 Cocco 1997年にデビュー。「強く儚い者たち」「樹海の糸」といったJ-POPナンバーから「ジュゴンの見える丘」など古里・沖縄をテーマにした歌まで幅広い楽曲を世に送り出してきた。2021年春のNHK連続テレビ小説のヒロインに決まった清原果耶のファーストシングルの作詞・作曲・プロデュースも手がける。 たった一度。祖母の証言 太平洋戦争で日唯一、住民を巻き込んだ地上戦となった沖縄戦。4

    戦争の記憶、いかに次世代へ?Coccoが明かす「祖父母の教え」(琉球新報)
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    facebooook 2020/08/15
    「きれいな声で歌ったら人は聞いてくれる。それで私はいつも、きれいな声で歌おうって思う。そういうことは真喜志康忠からすごく学んだんだ」今後どういう社会になってほしいか「薬局で怒鳴る人がいない世の中かな」
  • 戦わぬまま餓死・病死5千人…見放されたメレヨン島、何が生死を分けた? | AERA dot. (アエラドット)

    軍が設営した島・フララップ島の滑走路=2003年、友松撮影この記事の写真をすべて見る 戦後初の引き揚げ船で大分・別府港に着いたメレヨン島からの復員兵=1945年9月 (c)朝日新聞社 メレヨン島の海岸に残る日海軍の砲身=66年、遺骨調査団撮影 (c)朝日新聞社 戦死者約300万人の太平洋戦争末期、一度も格的な戦闘をしないまま、兵士の7割以上、約5千人が命を落とした島がある。ほとんどが餓死か病死だったという。何が生と死を分けたのか? ノンフィクションライター・友松裕喜氏が真相を追った。 【写真】戦後初の引き揚げ船で大分・別府港に着いたメレヨン島からの復員兵 *  *  * 赤道に近い北緯7度東経143度、太平洋のメレヨン島=ウオレアイ環礁は、東西約8キロ、南北約5キロに海抜約3メートルの約16の島が点在している。 久米宏氏が出演していたテレビ朝日「ニュースステーション」のディレクタ

    戦わぬまま餓死・病死5千人…見放されたメレヨン島、何が生死を分けた? | AERA dot. (アエラドット)
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    facebooook 2020/08/15
    北村勝三陸軍少将は遺族への訪問を一年がかりで終え昭和22年8月15日自決 「目の前で兵隊が死んでも知らん顔をする人もいる。『それではいかん、供養しよう』そう言って優しい気持ちを持っていた人ほど早く死んだ」
  • 首里城地下の司令部壕を撮影 太平洋戦争の記憶 色濃く | NHKニュース

    太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日軍が首里城の地下につくった司令部壕の内部を特別に許可を得て撮影しました。旧日軍が撤退した際に内部を爆破したとされる跡が確認できるなど、戦争の記憶を色濃く残していて、専門家は「沖縄戦を知る戦跡としては最も価値のある場所だ」として保存や公開を求めています。 撮影が許可されたのは、那覇市の首里城の地下に残る旧日軍の「第32軍司令部壕」です。 20万人を超える人が亡くなった75年前の沖縄戦で、旧日軍が深さおよそ30メートルの地下に全長およそ1キロにわたって構築し、戦況の悪化に伴って沖縄島南部へ撤退するまで、戦闘を指揮していました。 崩落の危険性が高いため、立ち入りが厳しく制限されてきましたが、今回、管理を行う沖縄県から特別に許可を得て初めて内部の奥深くまで入って撮影しました。 壕の中には、通路に沿って部屋が設けられ、銃やヘルメットなどの装備品が今も残されている

    首里城地下の司令部壕を撮影 太平洋戦争の記憶 色濃く | NHKニュース
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    facebooook 2020/08/15
    “「第32軍司令部壕」過去に一度、公開に向けた本格的な議論が交わされたことがある。25年前平成7年、当時の大田昌秀知事が戦後50年の事業として保存公開事業を打ち出した。大田氏は沖縄戦当時、学徒隊の一員だった”
  • WEB特集 首里城 地下に眠る戦跡 旧日本軍 第32軍司令部壕 | NHKニュース

    去年、大火災に見舞われた沖縄の首里城の地下に、75年前の沖縄戦の悲劇を物語る場所がある。これまで立ち入りが厳しく制限されてきたが、今回初めて内部の奥深くにテレビカメラが入った。(沖縄放送局記者 松下温) 「ギチィッ、ギチィッ」。固く閉ざされていた鉄製の扉を引くたびに、経年によってゆがんだ鉄枠と地面のすれる音があたりに響きわたる。 沖縄の象徴、首里城正殿から南西に300メートル下った森の中に、75年間ほとんど人目に触れることなく眠り続ける戦跡がある。 「第32軍司令部壕」。 太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日軍の司令部が置かれた地下ごうだ。崩落の危険性が高いため沖縄県が厳重に管理し、いまは年に一度、管理する業者が入るだけだ。 今回NHKは沖縄県との共同研究として、特別に許可を得て撮影を行った。第5坑道と呼ばれる入り口の最も奥深くまでテレビカメラが入るのは初めてだ。 扉を開けて一歩足を踏み入れると

    WEB特集 首里城 地下に眠る戦跡 旧日本軍 第32軍司令部壕 | NHKニュース
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    facebooook 2020/08/15
    沖縄戦で犠牲になった県民およそ12万人、亡くなった時期や場所が分かっている住民は8万2000人。4万6000人が首里撤退後の1か月で亡くなった。6月23日
  • 【全文】天皇陛下 平和を願うおことば 感染拡大に触れた一文も | NHKニュース

    終戦の日の15日、天皇陛下は、皇后さまとともに全国戦没者追悼式に臨み、新型コロナウイルスの感染拡大にも触れながら、人々の幸せと平和を願うおことばを述べられました。 感染拡大の影響で、両陛下がそろって公の場に姿を見せるのは半年ぶりで、マスク姿で式典に出席され、正午の時報とともに参列者全員で黙とうをささげたあと、天皇陛下がおことばを述べられました。 天皇陛下は、はじめに「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします」と述べられました。 そして、「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と締めくくられました。 ことしのおことばには、新型コロナウイルスの感染拡大に触れた一文も加えられ、天皇陛下

    【全文】天皇陛下 平和を願うおことば 感染拡大に触れた一文も | NHKニュース
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    facebooook 2020/08/15
    “私達は今、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、新たな苦難に直面していますが、私達皆が手を共に携えて、この困難な状況を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います”
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