心理, 雑感なんか、ちょっとだけ昔の事を思い出したので、忘れないように書いておく。当時の自分は、まあ、とにかく人と接触する事が嫌いで、そのくせ、妙に気位の高い所がある随分と屈折した青年だった。(屈折してるのは今もたいして変わらんがw)それで、以前もここに書いたけれど、その屈折は病的なレベルに達し、毎日、鬱々とした気分で塞ぎこみ、外出もせず、凄まじい自己嫌悪と不安に襲われては、頭痛と吐き気で、トイレに駆け込んで胃液を吐くだけの生活をしてた。精神的にも肉体的にも健康とは言い難い状態だった。しかし、そんな状況でも、いや、そんな状況だったからだろうか。他人に同情されたくない、といつも思っていた。 出来ることなら、誰にも理解されずに生きていたい、自分は自分だけの物にしておきたい他人に自分の感情を横取りされるのが不愉快で仕方ない安易に理解されたような顔をされるより、複雑に誤解されたい自分が死ぬことすら
雑感今更だが、パソコンを一台所有しててネットが自由に使えるって、途方も無いことなんじゃないのか、なんて、今日ふと思った。いや、途方も無い、という表現で良いのか、という感じもするが。なんというか、パソコンとネットで出来る事って、ものすごく幅が広くて、一つの要素や機能について突き詰めていくだけでも、底が見えない。それって、初心者には、まだまだ敷居の高い部分がある道具だ、という事でもあるのだけど、そのなんだかよく分からない部分が残っている感じは、知的好奇心が旺盛な人間には、とても喜ばしいものである気がする。まあ、言い方を変えると、なんだか良く分からない難解なものを目にして、自分も分かるようになりたい、と目を輝かせてしまうような、マゾな知的欲求を兼ね備えたオタク気質の人間には、パソコンはたまらない道具だ、という事だ。 パソコンやネットの利用も、以前より一般化してきて、ネットが見れればいいや、という
日常, 雑感バイトから帰宅し、夕食の準備でも、と思っていたら、親から電話が掛かってきた。たまには様子を見に行きたいから、都合の良い時に休みが取れないか、という話だった。連休や休日は特に忙しいから休めないかも、と否定的な雰囲気で濁した返事をして、電話を切る。 嘘だ。世間一般での連休や休日に忙しいのは事実だが、希望を出せば一日くらいは、おそらく、なんとかなる。だが、そんな風に言えなかった。なんだ?今更、反抗期か? いや、面倒臭い。今の自分に、そんな面倒臭い事が出来る余裕があるとは、思えない。今は一人で集中したい。面倒臭い。正直に言えば良かったのか?言えるわけが無い。正直に言ったら、きっと悲しそうな声を聞くことになる。ただでさえ、自分は親不孝な人間だというのに、そんな事は出来ない。 「忙しい」という言葉で取り繕って、決定的な何かを先延ばしにして、自分は逃げたのだ。臆病、卑怯、姑息。そんな言葉が、
雑感毎日、思ったことを吐き出し続けている。日常の中で、またはネットで他の人の意見を見て、そういう刺激から感じた事を自分の中から引っ張り出して形にして、一日に一つの日記を仕上げるのは面白い。ネットでいろんな話題を見ていると、人間なんてどうしようもない、と思うこともあるし、その逆に、まだまだ人間も捨てたものじゃない、と思うこともある。それは、ネットだけに限った話ではないだろう。 http://anond.hatelabo.jp/20080831201207上記の増田のエントリでは、ネットの匿名文化は露悪趣味が基盤で、ポジティブに何かを叫ぶ人々とは相容れない。という主張がされている。しかし、自分の印象では、殊更に強調されたポジティブとネガティブは、実は同じもので出来ているような気がする。発現の仕方が違うだけだからこそ、二つの教義は互いに過剰に反応してしまうのではないだろうか。個人的には、極端なポ
やはり人間、自分の器量に応じた注目にしか耐えられん 雑感 503 Service Temporarily Unavailable 上記の記事を読んで、かなり納得する部分が多かった。 特に「やはり人間、自分の器量に応じたカネしか持てん。器量を超えたカネを掴んでも、そのカネは絶対に残らへん。」という部分。 これは、自分も似たような事をよく感じる。 自分が扱えるお金の量って決まってるんだろうな、という感覚だ。 いきなり、自分が扱いきれない量のお金が降ってきたら、たぶん怖くなってしまうと思う。 自分の器量に見合わないものを手に入れてしまう恐ろしさだろう。 それで、ここからが本題、というか連想するように思ったことだが、ネットでの注目、アクセス数なんかも、それに近いんじゃないだろうか。 はてなで言えば、自分の器量に応じたブクマ数があるのだろうw 例えば、自分のこの日記、一番多くブクマを集めた時で50く
日記書きの心得, 雑感インターネット時代の「孤独」 - 琥珀色の戯言上記のエントリを読んで、タイトルのようなことを思った。この日記、ほとんどアクセスが無かったのだろうな、と思われる日も実はあるのだけど、それでも自分が書き続けていられるのは、自分が一人でいる事が嫌いじゃない人間だからなのだろうと思う。昨日、自分が書いたエントリとも関連していると思うが、自分にとってネットに何かを投げかけるというのは、キャッチボールというよりも、ボトルに手紙を入れて海に流すような行為に近いもので、そういう行為が楽しめるかどうかが、ネットで呟き続けるためのコツなのだろう。それは、ロマンチック…というよりも、ネクラなキモイ心性なのかもしれないがw さらに言うと、究極的に突き詰めると、人生において何かを遺すという行為もこれに近い、と自分は思っている。「誰かに届く確証なんて無いけれど、それでも、後に続く誰かがいるかもし
雑感秋葉原の事件の犯人が、携帯電話で書き込む掲示板にいろいろ書いてたっていうのが、多くの人に知れ渡っているわけだが、それを知った時に自分が思い出したのは、自分が携帯サイトを利用していた時期の事。今はもう、携帯電話は電話としてしか使っていない上に、家に置きっぱなしで携帯すらしていなかったりするのだが、一時期、興味本位で携帯専用の掲示板を見ていたりしてたことがあった。それで、思うのが、ケータイとPCでは増幅する孤独の質が違う、ということ。おそらく、インターフェイスの差によるところが大きいと思うのだが、ケータイの小さい画面でカチカチとボタンを押して情報を取り込んでいると、PCとは全く違う形で感情に影響するものがあると思うのだ。手軽で、どこにでも持ち歩けて、どこでも繋がれるけれど、世界と繋がっている窓は小さい。ボタンや画面の小さい携帯電話のインターフェイスはそういう感覚を強調する気がする。 普段か
日記書きの心得, 雑感久しぶりに、残業も無く定時であがって帰宅。つつがなく帰れることの有難さを噛みしめる。それで、まあ、相変わらず飽きもせずに、こうして日記を書いている。 書き続けるっていうのは、自分にとって何なんだろう、と最近思う。毎日、書くことに、こだわりすぎなんじゃないのか、と疑う事もある。でも、上手い文章とは言えないのだけれど、何かこう自分にとって、ピタッとはまるようなものを書き上げた時の快感みたいなものは確かにあって、その瞬間は何か別の物に換えられるものではないと思うのだ。ただ、それと同じくらい、思うような物を書けてないな、というスッキリしないものを感じる事もあるのだけど。 自分の場合は、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる方式で、書けないなぁ、と思う日も、とにかく吐き出し続けている。そんな中で、苦し紛れに吐き出したものに、外から思いも寄らなかった反応があって、驚くこともある。こうして、公
公務員も大変だなぁ 日常 今日は、ちょっとした健康保険の手続きのために役所に行って来た。 自分の手続きをしている隣のカウンターで、一人のおじいさんがずっと「自民が…いや、民主の小沢さんにしたって…」と話していて、役所の人が「ええ、ええ」と相槌を打って聞いていた。 その状況を見て、ああ、後期高齢者医療制度の年金の天引きの額に納得いかずに問い合わせに来たおじいさんなんだろうな、とすぐに想像できた。 随分と長い間、おじいさんが一方的に床屋政談的な話をして、職員の方が相槌を打つ、という状態が続いているようで、自分の手続きが終わっても、まだその状態だった。 いやぁ、公務員も大変だなぁ、と思い、手続きが終わった後、すぐに帰宅した。 ああいう問い合わせが制度が始まってから、後を絶たないのだろう。 職員の方の対応には、クレーム受付に手慣れたサービス業に似たもの、というか、まあ、ほとんど同じものを感じた。
日記書きの心得 http://anond.hatelabo.jp/20080527065749定期的に、「ブログなんてものは役に立たないんじゃー、やめてしまえー」という意見を言う人が増田なんかに現れる。それで、そういう意見を見るたびに思うのだが、ブログの定義って何なのだろう。定期的に更新される日記的サイトの総称。そういった感じの説明が検索すると出てくるが、自分の書いてるものがブログかと言われたら、違うような気がする。自分の書いてるものは、日記に近い。強いて言うならweb日記だ。あなたはブロガーか、と聞かれたら「いえ、ただの日記書きです」と自分はたぶん答える。 知的生産が、情報の価値が、なんて話をブログ論として出すような、いわゆるブロガーな人達もいるようだが、そもそも自分が書いてるのは日記であり、自分は日記書きなのだから、そういう話はなんだか自分には無縁の物に思えたりする。大体、この日記の内
日記書きの心得 毎日、こうやって日記を書くようになってから、チラシの裏のような駄文でもとにかく書き続けると、自分の中で変わるものがあることに最近気付いてきた。書いてアウトプットをするほど、いろんなものを取り込んで、インプットしたい、という欲求が増える。誰かの書いたものを読み、自分も書くことで、日記を書く前よりも自分の興味の対象が広がっているような気がする。その証拠に、日記を書き始めてから、やりたいことが多くて時間が足りない、と思うことが多くなった。 何かを書きたいな、と何気なく書き続けることが、自分の好奇心の源泉の一つになっていることに少し驚いている。吐き出し続ければ、取り込まずにはいられなくなるというのは、自然の摂理としては当然と言えば当然なんだけれど、実際にやってみないと実感できないのだろうと思う。 アウトプットの弊害 - 試作型思索と詩作少し前の上記のエントリで、吐き出すことで良くも
日常, 雑感, 日記書きの心得早番のバイトの帰り道で、まだ日が沈んでいないのを見て、随分と日が長くなったな、なんて思って季節を感じる。思えば、引きこもっていた頃は季節が変わっていくにつれて、自分だけが取り残されていくような不安があったのだけれど、最近はその逆とでも言うのか、毎日をこなしながらも季節や時間とともに流されていく不安みたいなものがある。時間の流れの中で、自分も変わっていくことができている実感があれば、少しは安心できるのだろうか。 でも、自分が変われているかを自分で判断するのって結構難しい。自分を見てくれている誰かが居れば、とそんなことを考えると、基本的に独りが好きな自分でも、なんだか人恋しさのような感情が湧いてくる。 こうやって、毎日、ネットという虚空へ向かって呟くように日記を書いているのは、流れていく中でも確認できるものを残しておきたいからかもしれない。そして、残したものを見知
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